夭折の天才アレクサンドロス!その生涯を紐解く1冊

20歳からわずか10年で大帝国を建設

 古代マケドニア王アレクサンドロス3世(B.C.356~B.C.323)。英語圏では「アレキサンダー大王」と呼ばれ、イスラム圏でも「イスカンダル」の名で親しまれるなど、「古今東西その存在を知らぬ者はいない」と言っても過言ではない、歴史上の重要人物です。

 アレクサンドロスはマケドニア王家に生まれ、父王フィリッポス2世(B.C.382~B.C.336)と共にギリシア諸ポリスを制覇。父の逝去に伴い20歳にしてマケドニア王に即位すると、すぐに東方遠征を開始し、わずか10年でギリシアからインドにまたがる大帝国を築き上げました

 その偉業は、カルタゴのハンニバル(B.C.247~B.C.183)やローマのカエサル(B.C.100~B.C.44)といった後世の英雄からも畏敬の対象とされています。

 そんな彼の33年という短い生涯を追いながら、その存在意義、歴史上に残した遺産について、最新の研究が紹介されているのが、講談社学術文庫「興亡の世界史」シリーズから出ている『アレクサンドロスの征服と神話』(森谷公俊著)です。 

興亡の世界史 アレクサンドロスの征服と神話 (講談社学術文庫)

興亡の世界史 アレクサンドロスの征服と神話 (講談社学術文庫)

『アレクサンドロスの征服と神話』の目次

第1章 大王像の変遷
第2章 マケドニア王国と東地中海世界
第3章 アレクサンドロスの登場
第4章 大王とギリシア人
第5章 オリエント世界の伝統の中で
第6章 遠征軍の人と組織
第7章 大帝国の行方
第8章 アレクサンドロスの人間像
第9章 後継将軍たちの挑戦
終章 アレクサンドロス帝国の遺産

東西4500kmの領土を誇る

 アレクサンドロスは東西4500kmに及ぶ広大な領域を手にしましたが、「広げ過ぎた屏風は倒れやすい」とはよく言ったものです。後継者を明確に指名していなかったこともあり、彼が亡くなった後、一瞬にして帝国は分裂し、マケドニア人の手で統一されることは二度とありませんでした。

 アレクサンドロスと共に数多くの戦いで力を振るってきたアンティゴノス(B.C.382~B.C.301)、セレウコス(B.C.359~B.C.281)、プトレマイオス(B.C.367~B.C.282)の3人は、それぞれマケドニア、シリア、エジプトを基盤とした国家を建設します。

 互いに牽制し合っていましたが、アンティゴノス朝マケドニアはB.C.168年、セレウコス朝シリアはB.C.63年、プトレマイオス朝エジプトはB.C.30年に滅亡。彼らを尽く滅ぼして地中海世界を飲み込んでいったのが、カルタゴとの戦いに勝利して飛躍を遂げてきた共和政ローマです。

 アレクサンドロス帝国の建設(B.C.330年頃)からローマによる地中海世界統一(B.C.30年)までの約300年間は、一般的に「ヘレニズム時代」と呼ばれており、ギリシア文化とオリエント文化が融合していった期間とされていますが、本書は改めてアレクサンドロスに関する史料を精査し、そうした従来の見方を問い直す作品でもあります。

神になろうとしたアレクサンドロス

 本書ではタイトルにもある通り、アレクサンドロスと神話の関係性についても深く言及されています。実は、神話がある程度本気で信じられていた紀元前4世紀において、自らを神々と同列に置き、個人崇拝をさせようと試みたのはアレクサンドロスが初めてのことだそうです。

 彼の足跡を見ていると、神話の中で英雄たちがとった行動を故意になぞっている部分も散見され、意識をしていたのは明らか。彼が自身のことを神だと信じていたかは別として、少なくとも何万もの将兵を統率する上で、自己を神格化することに意義を見出していたことは確かです。そして、彼は自己神格化の源泉である偉業として、常に遠征を行い、全ての戦場で勝ち続けねばならなかったのでした。

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戦争と文明伝播の密接な関係

 僕は初めて世界史を学んだ時から、全く異質な文明同士が交錯したり、人口の移動が歴史に大きな影響をもたらしたりする現象に興味を持ってきました。それは他国への侵略という形で行われることもありますし、故郷からの逃避行によって引き起こされる場合もあります。

 侵略・戦争による文明伝播、人口移動の事例は、枚挙に暇がありません。

 上記のアレクサンドロスによる東方遠征はもちろん、アッバース朝イスラーム帝国と中国の唐帝国が激突したタラス河畔の戦い(751年)を経て、西方に製紙法が伝わったとされていますし、日本においても16世紀末、豊臣秀吉(1537~1598)による朝鮮出兵の折、現地から連行された職人が祖となって誕生したのが有田焼です。

 13世紀、チンギス・ハン(1162~1227)率いるモンゴル軍によって行われた西征は凄まじく、中央アジアを席巻。彼の子孫たちは東ヨーロッパまで到達し、ワールシュタットの戦い(1241年)でポーランド・ドイツ連合軍を撃破したバトゥ(1207~1256)以下、各地に国を建てました。それによって、これまで出会うことのほとんど無かった異文化が邂逅したと言えます。

 15世紀初めには、中国の明帝国第3代皇帝永楽帝(1360~1424)の命で、鄭和(1371~1434)がインド・アラビア・アフリカへ向けた航海を行い、現地からキリンやライオン、シマウマといった珍しい動物を連れて帰りました。

 航海と言えば、15~17世紀にヨーロッパ諸国が先を争うように世界へ艦隊を派遣した大航海時代も忘れることはできません。

フランス革命にも繋がったナント勅令廃止

 ある政策によって人の移動が起こり、歴史に影響を及ぼした例としては、フランスにおけるナント勅令の廃止があります。1598年、フランス王アンリ4世(1553~1610)はプロテスタント信徒にカトリック信徒とほぼ同じ権利を与えるナント勅令を発布しましたが、1685年に絶対君主の代名詞ルイ14世(1638~1715)がこれを廃止してしまいました。

 これに伴い、商工業の中心的役割を果たしていたプロテスタント市民が国外へ流出し、フランスの国力は大きく削がれました。産業が空洞化し、税収が上がらなくなった同国では増税が行われ、これに苦しめられた人々の怒りが頂点に達した結果、1789年のフランス革命へと繋がります。

文明の逆輸入がルネサンスをもたらした

 平和的な交流に関しては、1~2世紀の時点で中国の漢帝国とローマ帝国がお互いに向けて使節を派遣していたという記録があります。漢は97年、甘英(生没年不詳)をローマ帝国に派遣しようと画策し、彼は途中のパルティア王国まで到達しました。ローマも166年、漢へと使節を送り、こちらは日南郡(現在のベトナム)を訪れて漢と交流を持ちました(異説あり)。

 また12~13世紀、スペイン中央部にある街トレドにおいて、ユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラム教徒が共同で翻訳活動を行い、古代ギリシア・ローマの文献がアラビア語からラテン語に訳されたことで、ヨーロッパのルネサンス開花に大きな影響を与えました。元々はヨーロッパで発展した科学・哲学・神学の知識が一旦イスラム圏に持ち込まれ、この中で醸成された上、再びヨーロッパに逆輸入された形です。

 世界史の面白さは、やはり異なる文明同士が衝突と融合を繰り返すダイナミックさにあります。今回ご紹介したアレクサンドロスの帝国も、その最たる例として多くの方の好奇心を刺激することでしょう。