東大安田講堂攻防戦の当事者が語る学生闘争の歴史的意義

東大安田講堂に籠城した学生たち

 今からちょうど50年前の1969年1月19日、東京大学本郷キャンパスの安田講堂で、全学共闘会議(全共闘)と機動隊との攻防戦が繰り広げられました。

 学生闘争のハイライトとも言うべきこの事件の際、実際に安田講堂内に立て籠もり、最後まで抵抗を続けた島泰三氏が、ここに至る経緯と当時の様子を振り返り、歴史的な位置付けを総括したのが『安田講堂 1968-1969』(中公新書)です。ちなみに著者は事件後、当然逮捕・起訴され、懲役2年を食らいました。

 学生運動の中で、警察の機動隊、共産党系組織、体育会系学生団体などと戦っていた当事者が語る闘争の様子は臨場感に溢れ、興味深いものでした。もちろん、立場が立場なだけに視点は偏っていますが、彼らが当時何を考えて行動したのかを読み取る上では、むしろ純粋な史料に当たると思います。

安田講堂 1968‐1969 (中公新書)

安田講堂 1968‐1969 (中公新書)

『安田講堂 1968-1969』の目次

その一 発端
その二 未来の大学へ
その三 バリケードのなかで
その四 ひとつの歴史の頂点
その五 日大・東大全共闘合流
その六 前夜
その七 安田講堂前哨戦
その八 安田講堂攻防
その九 安田講堂始末
その十 一九六九年、そして今

機動隊の猛攻に抗う

 あくまで安田講堂攻防戦を含む学生闘争は「内戦」ではなく「内紛」の域を出ませんでした。学生たちを鎮圧したのは自衛隊ではなく警察であり、彼らに打ち込まれたのは戦車の砲撃ではなくガス銃だったのです。

 しかし、もちろん学生側にとって機動隊の攻撃は激烈なものでした。インターネットで検索すれば放水攻撃を受ける安田講堂の写真を今でも見ることができますが、あれも「ただ勢いの強い水」というわけではなく、化学物質を混ぜたものです。肌にまともに食らうと水膨れができ、これで火傷を負った学生は数多くいます。

全国の大学の43%がストライキ状態

 この東大闘争だけで約1000人が逮捕され、その8割が起訴されたと言います。また、1969年にベトナム反戦闘争、大学闘争で逮捕された人数は約1万人。全国の大学の43%がストライキ状態であったと聞けば、当時どれだけ非常事態であったか分かります。

 この闘争を指導した東大医学部や法学部の秀才たちは、そのままエリートコースを進んでいれば官僚や政治家、教授といった栄達が約束されていたはず。それを蹴るのみならず、最終的には懲役刑を食らってまで、彼らは何をしようとしたのでしょうか。

 高圧放水車や催涙ガスを駆使し、警棒とジュラルミンの盾、鉄板の入った安全靴を装備した警察の圧倒的な武力の前に、なぜ多くの学生が投石や火炎瓶で応じ、失明、半身不随、全身火傷などの重傷を負いながらも闘い続けたのでしょうか。f:id:eichan99418:20190401034011j:plain

医学部の叛乱が東大闘争の原点

 大学闘争の主体を担った「全共闘」の中でもとりわけ有名になったのは、東大全共闘と日大全共闘です。

 東大における闘争の始まりは、医学部の「叛乱」に端を発するものでした。大学を卒業して「研修医」となった青年たちは、深夜など最も過酷な労働環境の現場へ回され、かつ低賃金で働かざるを得ない状況に陥ります。

 慢性的な医師不足を、大学病院側は「医師の卵」をほぼ無給で投入することで解決していたのでした。この構造の打破を唱え、医学生たちが立ち上がったのが、東大闘争の原点です。

日大学生の不満が爆発

 一方日大は、元々「大学闘争の最も少ない大学」として名を馳せていました。しかしそれは、学校当局と体育会系の学生が結託して、学生運動を抑え込んでいたためだったのです。

 これに対する不満を爆発させた日大の学生たちは、日大当局に30億円もの使途不明金があったという事件をきっかけに決起。経済学部などの建物を包囲しました。その数なんと1万人!日本刀やゴルフクラブ、鉄パイプ、チェーンなどを武器に容赦無く攻撃を仕掛けてくる右翼系組織、体育会系学生と渡り合いました。

 上記からも分かる通り、日大では最初から武力闘争の傾向が強かったため、そのノウハウを積んでおり、彼らが東大の「軟弱な」バリケード補強に一役買ったとのこと。本書に記載されていた日大芸術学部の攻防戦は、まさに戦争さながらです。

「神話」となった日大全共闘

 1968年11月、日大当局の動員した武力組織に急襲された芸術学部は、その猛攻をなんとか凌ぎつつ、本部に救援を要請。これを受けた日大全共闘は当局側部隊の背後に近づくまで可能な限り身を隠し、奇襲攻撃を仕掛けました。

 芸術学部から打って出た学生たちと全共闘の応援部隊の挟撃で、当局側は散り散りになって逃走。こうして「神話」となった日大全共闘の部隊3000人が、総決起集会のために2000人の機動隊を振り切って東大安田講堂前へ姿を現した時は、ドラマさながらの光景だったことでしょう。

四面楚歌の学生運動

 この学生運動を世界革命・武力革命を志向する「新左翼」挫折の始まりと見る向きもありますが、その見方は早計なように思います。確かに、中核派など新左翼の面々が安田講堂の一部を防衛していたことは事実です。しかし、総じて籠城していた学生たちは「国家転覆」を企んでいたわけではありません。経緯からしても、大学当局に対する純粋な抗議行動の一環でした。

 とはいえ彼らは、大学運営側はもちろん、当局が動員した体育会系学生、右翼団体、警察の機動隊、そして日本共産党まで相手にしなければなりませんでした。政府、右翼、左翼に囲まれ、まさに四面楚歌です。

 学生側の要求が待遇改善や大学改革など左がかった主張であることから、政府や右翼と衝突するのは合点がいきますが、共産党系の部隊とも戦わねばならなかったのは意外でした。

 これには、共産党も東大から幹部候補を採用しているため、大学への影響力を強めたかったという背景があったようです。また、学生側に加担していた新左翼の武力革命路線と敵対関係にあったことも理由の一つでしょう。

右翼と左翼の本質的な類似点

 余談ですが、右翼と左翼の接近はあながち奇妙な話ではありません。作家の三島由紀夫(1925~1970)も左右の別について「天皇と諸君が一言言ってくれれば、私は喜んで諸君と手を繋ぐのに」と述べています。

 実際、米国の原子力空母「エンタープライズ号」の入港阻止を巡る佐世保港での闘争に参加した著者は、右翼の学生から感謝と激励の言葉を受けたというエピソードを語っていますし、日本の教育改革を唱える主張なども、本質的には左右に隔たりは無かったと思われます。いずれにせよ、日本人と言う同朋意識があり、「日本の将来を思えばこそ」という認識は共通していたに違いありません。

 少し暴論かもしれませんが、幕末期に討幕・佐幕・開国・攘夷・尊王といった理念が噴き出た際、少なくともその中の第一級の人物に関しては、自己保身や利権のためではなく、心から「日本のため」を想って主義主張を貫いたという事実に似ていますね。

 そう考えると、右翼・左翼の双方にとって最も相容れないのは、むしろ世の中の事象に対して何の意見も持たない無関心層かもしれません。

日本社会の矛盾が露わとなった時代

 さて、東大闘争は最終的に鎮圧されましたが、政府はその年の東大入試を中止。これは、新たな学生から授業料を得られないことを意味し、資本主義システムに組み込まれている大学当局としては大きな痛手だったことでしょう。これだけでも、この闘争がもたらした歴史的な意義の大きさを物語ります。

 東大闘争の原点である医療問題に止まらず、ベトナム戦争への反対、沖縄返還問題、大衆化して「腐敗」する教育、高度経済成長の弊害である公害など、日本社会の矛盾が露わとなりつつあったこの時代。そうしたあらゆる問題へのアンチテーゼが一つにまとまり、闘争に至ったのが1968年でした。

 この近辺の歴史を踏まえつつ、特に学生闘争に興味のある方に『安田講堂 1968-1969』はオススメです。