キリスト教一強の世界観を問い直した社会史学の名著

学校で習う歴史が全てではない

 歴史学の中に「社会史学」という分野があるのをご存知でしょうか。

 僕らは学校教育の中で、いわゆる「権力者たちの歴史」である政治史を学んできました。カエサル、ナポレオン、リンカーン…そうした「英雄」が行った戦争や政治、文化事業を中心に描かれる歴史です。

 そもそも歴史学とは、紙や碑文などに書かれた一次史料を元に人間の歩みを紐解く学問です。ただ、特に時代を遡るほど、そうした一次史料は支配階級側からの記述しか見られなくなります。識字率の問題もあって、民衆の文化は口頭伝承として伝わることが多く、彼らの記録を一次史料の中から探し出すのは困難なのです。

 しかし、それを何とか成し遂げ、民衆の側から歴史を再構築しようと、新しい歴史学として1970年代あたりから注目されるようになったのが「社会史学」です。思想や文化は、決して支配階級からしか生まれないものではない。従属階級側から生み出された文化を抽出しようという試みでした。

 そんな「社会史学」の名著として知られるのがカルロ・ギンズブルグの書いた『チーズとうじ虫』(みすず書房)です。 

チーズとうじ虫―― 16世紀の一粉挽屋の世界像 (始まりの本)

チーズとうじ虫―― 16世紀の一粉挽屋の世界像 (始まりの本)

粉挽屋への異端審問記録が第一級の史料に

 本書は、16世紀イタリアに実在した粉挽屋ドメニコ・スカンデッラ(1532~1601、通称メノッキオ)が異端審問にかけられ、15年という長い歳月をかけた裁判の末、焚刑に処されるまでを描いた書籍です。

 本来ならば記録になど残らないはずの一般庶民である粉挽屋が、キリスト教信仰における異端とされて法廷闘争の場に引っ張り出されたことにより、その審問記録に残ってしまった。この裁判の中で彼が答弁した数々の思想体系、宗教観、世界観を通して、私たちは当時の庶民の有り様をこれまでより正確に知ることが可能となったのです。

 そもそも、なぜメノッキオは宗教裁判にかけられることとなったのか。ここに関しては、異論の余地は全くありません。彼はまず、神が世界を創ったという創造説を否定しました。また、キリストは処女マリアから生まれたのではなく、歴とした父親がいることを主張。すなわち、キリストは人の子であるとして、彼の神性に関しても言下に否定したのです。

明かな異端信仰を平気で口走る

 メノッキオは紀元前4世紀にギリシアの哲学者たちが発想していたように「全ては土、空気、水、火が渾然一体となったカオスである」といった考えも口走りました。また、神と天使を同列に置くなど、異端的な発言を繰り返したのです。

 その言説の中には「全てが神である」というものもあり、「自然界の全てに霊が宿っている」とするアニミズムのような思想も持っていました。日本の「八百万の神」にも通ずるところがありますね。

 さて、こんなメノッキオですが、これが特殊な事例であれば、突然変異的に偶然登場した「ただの奇人」で議論は終了してしまいます。反対に「彼は決して特別な存在ではない」と証明できれば、彼について深く知ることが当時の民衆文化の理解に繋がることになるわけです。

書物を通して独自の世界観を構築

 詳しくは本書に委ねますが、著者ギンズブルグはメノッキオについて「典型的とまでは言えない」としながらも、決して特殊な事例ではなかったと結論付けています。

 少なくともメノッキオは、一般的な農民階級に属していました。初等の学校に通ったことで文字が読めたため、村の代表となることも多かったようですが、これも格段に特筆すべき事項というわけではありません。

 彼のような考えの人間は、マイノリティとは言え、それなりにいたと考えられます。それは、彼が自らの考えを開けっ広げに語っていたというのに、何年もの間、村の住民に告発すらされなかったことからも推察されます。

 ただ、メノッキオが文字を読めたことで、その運命は大きく変わりました。なぜなら、彼は「異端的」とされた知識を多くの書物から吸収した形跡があるからです。彼の生きた16世紀ヨーロッパと言えば、宗教改革の嵐が吹き荒れ、カトリックとプロテスタントの争いが激化しつつあった時勢。しかしメノッキオはむしろ、それとは別の「異端の書」や『コーラン』を読むことで、独自の世界観を構築していったようなのです。f:id:eichan99418:20190402022435j:plain

キリスト教世界にも確実に存在した異端

『チーズとうじ虫』は、キリスト教世界も決して一枚岩ではなかったという事実を垣間見るに止まりません。ローマ帝国によってキリスト教が公認、そして国教化された4世紀以来、キリスト教によって覆い尽くされたと考えられてきたヨーロッパ民衆文化の新たな側面を発掘した名著と言えます。

 16世紀ヨーロッパでは、ある意味一人ひとりの思想統制が行われていたとも言え、キリスト教の教義に合わない書籍が発禁処分になるなど日常茶飯事でした。しかし、そうした中でも「異端」は確実に民衆の中に芽吹いていたのです。

歴史学には刑事の目が必要

 歴史学には、ある意味で刑事のような視点が必要です。

「人が嘘をつく時、そこには必ず理由がある。それは、①誰かを欺くため、②自分を守るため、③誰かを庇うため、のどれかだ」

 これは、刑事ドラマ『新参者』の中で、阿部寛の演じる刑事、加賀恭一郎が言ったセリフです。大した理由も無く、ノリだけで重大な嘘をつく人はいません。そして、この点は歴史学において一次史料を解読する際にも同じことが言えます。

 同じ歴史的事象について記述している複数の史料があり、その辻褄が合わない場合、確実にどれかが間違っています。その間違いが意図的であれば、誰かが嘘をついているということです。

 しかし、嘘をつくからには、その裏に必ず理由がある。したがって、どんなにでたらめな史料でも、「そこから何かを読み取れる」という点において無駄になることは決してありません。

『チーズとうじ虫』は、こうした知的探求がお好きな方や、社会史に興味を持たれた方にオススメです。往々にして「社会史の名著」と言われる書籍は分量が多いのですが、本作であれば1冊にまとまっているので苦も無く読めるでしょう。