ほぼ100%の人が多神教信者だった古代
現在、世界には数えきれないほどの宗教がありますが、ユダヤ教(1300万人)、キリスト教(20億人)、イスラム教(12億人)に代表される「一神教」を信じる人が世界人口の半数を占めます。
しかし古代においては、人類のほぼ100%が多神教を信仰しており、一神教はマイナーとさえ言えないほどのちっぽけな存在でした。キリスト教は1世紀前半、イスラム教は7世紀前半の成立ですから、特に1世紀以前に関して言えば、明確に一神教を掲げていたのはユダヤ教のみであったことになります。
キリスト教成立前夜、イエス・キリストが生まれた約2000年前の世界におけるユダヤ人の人口比率は、世界人口の2%に過ぎませんでした。多神教が大勢を占める世界の中で、ユダヤ人たちはB.C.1300年頃から1000年以上もの長きに渡り、細々と一神教の信仰を守り続けてきたわけです。
なぜユダヤ人だけが、一神教という「独自の信仰」を編み出すことができたのか。その成立過程の謎を考古学的見地から紐解くのが、筑摩選書から出ている『一神教の起源』(山我哲雄著)です。

一神教の起源:旧約聖書の「神」はどこから来たのか (筑摩選書)
- 作者: 山我哲雄
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2013/08/10
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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第1章 一神教とは何か
第2章 「イスラエル」という民
第3章 ヤハウェという神
第4章 初期イスラエルにおける一神教
第5章 預言者たちと一神教
第6章 申命記と一神教
第7章 王国滅亡、バビロン捕囚と一神教
第8章 「第二イザヤ」と唯一神観の誕生
出エジプトがヤハウェをもたらした?
ユダヤ人たちは確かに一神教を生み出しましたが、最初からその信仰を掲げていたわけではありません。それどころか、B.C.1300年頃、ユダヤ人の祖先である古代イスラエル人は定義すら明確ではない民族で、歴史学上は跡形も無かったと言えます。
しかし、バラバラであった諸部族が徐々に集まり、「イスラエル」と呼ばれる部族共同体が生まれました。当初、彼らは「エル」という神を信仰していたようです。「エル」の名は「イスラエル」という国名として、現在まで語り継がれることになりました。ただし、彼らはまだ「エル」のみではなく、他の神々への信仰も行うなど、完全な一神教信仰には至っていませんでした。
そんな中、旧約聖書の中でも指折りに有名な「出エジプト」を経て、イスラエル人がエジプトから逃れてきました。エジプト軍に追い詰められたモーセがヤハウェに祈ると、紅海が真っ二つに割れて道ができたとするエピソードや、シナイ山でモーセがヤハウェから十戒を授かるシーンがよく知られていますね。
真偽のほどや規模の大小は別として、エジプトからパレスチナへの移住があったことは十分に考えられます。またこの結果、エジプトから逃れてきたイスラエル人たちが、パレスチナにヤハウェへの信仰をもたらした可能性も否めません。これが従来信仰の対象であったエルと同一視され、徐々に神の名前がエルからヤハウェへと変化していったと考えられています。
旧約聖書とヤハウェ唯一崇拝の誕生
その後、エジプトの国力低下によって統制が弱まったことで、かえってパレスチナにおける都市国家同士の抗争が激化。それに加えて「海の民」と呼ばれる人々の侵入もあり、地中海東部の社会は大混乱に陥ります。
イスラエル民族はこの危機を乗り越え、共同体を存続させるため、一致団結せねばならなくなりました。ここで結束の土台として必要になったのが、共通の歴史と信仰です。結果として編まれた歴史が旧約聖書(の原型)であり、唱えられた信仰がヤハウェのみの排他的崇拝を基礎とするユダヤ教でした。
ただし、この時点ではまだ、ユダヤ教徒は「私たちはヤハウェのみを信じる」としながらも、他の国々の神については存在を否定していません。したがって、現在のユダヤ教・キリスト教・イスラム教が唱えるような「神は唯一の存在である」という唯一神教には至っていませんでした。
アッシリアがイスラエル王国を滅ぼす
国際情勢の大変動期にあって、B.C.1020年頃にイスラエル人たちは王国を建国します。これはB.C.930年頃に北のイスラエル王国、南のユダ王国に分かれ、それぞれの道を辿ることとなりました。
ただ、南北両国で他の神を信仰する動きが活発になるなど、ユダヤ教の一神教としての基盤はまだまだ整っていませんでした。
こんな中、B.C.722年に大事件が起こります。地中海まで勢力を伸ばしてきたアッシリア帝国(B.C.2500頃~B.C.609)によって、北のイスラエル王国が滅ぼされてしまったのです。
古代において、国同士の戦争はその国の人々が信仰する神同士の戦いでもありました。したがって、アッシリア帝国によるイスラエル王国の滅亡は、「オリエントの神々のヤハウェに対する勝利」と捉えられる可能性が十分にあったのです。
同胞国家の滅亡を民族の罪への罰と解釈
同胞の国家が滅亡したことで、南のユダ王国には激震が走りました。「ヤハウェの敗北」という信仰の危機に陥った彼らは、このイスラエル王国の滅亡を別の観点から捉えることとします。すなわち、「ユダヤ民族が罪を犯したため、ヤハウェがアッシリア帝国を使ってこれに罰を与えた」と解釈したのです。
ここに、ヤハウェを「ユダヤ人のみならず、他の国々をも動かす力を持つ世界普遍の神」とする思想の片鱗も見ることができます。
こうして何とか信仰の危機を乗り越えたイスラエル人たちのユダ王国では、ヨシヤ(?~B.C.609)が宗教改革に乗り出します。同国では各地に「聖所」があり、これが地域において異教の神が崇拝される温床となっていました。ヨシヤはこの聖所を廃止し、祭儀をエルサレムの神殿に集中させることで、ヤハウェのみへの信仰を守ろうとします。
民族の絶望が唯一神教を生んだ
ところが、無情にもこの「敬虔な王」であったはずのヨシヤは、エジプトとの戦いで亡くなってしまいます。そればかりか、アッシリア帝国を打ち倒して勢力を拡大した新バビロニア帝国(B.C.626~B.C.536)によって、ユダ王国自体が滅ぼされてしまうのです。この際、多くの住民が首都バビロンに強制連行されました。
B.C.586年のこの出来事は、世界史上で「バビロン捕囚」と呼ばれて有名ですね。イスラエル人は国、領土、指導者、神殿の全てを失い、民族は各地へ離散。ユダヤ教にとって最大の危機が訪れたと言えます。
この状況下で、バビロンに連れ去られた多くのイスラエル人たちは、いかにして信仰を守ったのでしょうか。
今回ばかりは、イスラエル王国滅亡の際と同様に「ユダヤ民族が罪を犯したため、ヤハウェが新バビロニア帝国を使ってこれに罰を与えた」と解釈するだけでは足りませんでした。なぜなら、ヤハウェが住む所とされる神殿までもが破壊されてしまったためです。
この絶望の淵にあって、ある意味で宗教革命とも言えるコペルニクス的転回が行われます。それが、「ヤハウェこそ唯一の神である」という発想でした。「神はヤハウェのみであり、いかなる事象もその心のまま」というわけです。それならば、他の神はそもそもいないわけですから、ヤハウェに「敗北」の二文字は無いこととなります。
圧倒的な理不尽に襲われた時、人はその理由を見出すことで精神衛生を保とうとします。イスラエル人たちは、祖国の滅亡という逆らうことのできない理不尽に対する言わば「防衛機制」として、唯一神教を生み出したのです。
ヨーロッパ世界が一神教に覆われた理由
キリスト教、イスラム教がユダヤ教を踏まえた宗教であることに反論の余地はありません。ただ、ユダヤ教がユダヤ人に限定した選民思想であったのに対し、キリスト教は「信仰する全ての者が救われる」とした点で、世界宗教となりうる基盤を持っていました。
実際に、一神教が世界に拡大した背景としては、キリスト教がローマ帝国に浸透した影響が大きいでしょう。同国ではB.C.753年の建国以来、1000年以上に渡って多神教が信仰されてきましたが、4世紀にその流れは大きく変わります。
313年、ローマ帝国のコンスタンティヌス帝(272~337)がミラノ勅令を発してキリスト教を公認。さらに392年、テオドシウス帝(347~395)がキリスト教を帝国の国教としたことで、その後のヨーロッパ世界がキリスト教という一神教で覆われる歴史が定まったのです。
今回ご紹介した『一神教の起源』では、キリスト教やイスラム教に関してはほとんど触れられていません。しかし、多神教が主流の世界からどのように一神教が生まれ、かつ唯一神教へと至ったのかについて、説得力のある解を得ることができます。この分野に興味がある方は、是非一読してみてください。