ローマ帝国の天敵、ゲルマン民族
今から約2000年前の古代、地中海世界全域を支配して栄華を誇ったローマ帝国。その強大なローマであっても、常に警戒を怠ることができなかったのが、北方のゲルマン民族です。ローマ帝国の歴史は、彼らとの戦いに終始したと言っても過言ではありません。
そんなゲルマン民族について、古代ローマの誇る歴史家タキトゥス(55~120)が1世紀当時の様々な情報を記した民俗誌が、『ゲルマーニア』(岩波文庫)です。
ライン川以東に点在して住んでいたゲルマン諸民族について、その政治体系・風習・文化を述べた後、30は下らないそれぞれの部族に細かな注釈を加えています。

- 作者: コルネーリウス・タキトゥス,泉井久之助
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1979/04/16
- メディア: 文庫
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ユリウス・カエサル(B.C.100~B.C.44)が『ガリア戦記』において描いたのは、現在のフランスに在住していたガリア人との戦いでしたが、本書はその平定戦役から約100年後のドイツ、北欧地域が舞台です。
実はカエサルの時代に起きたガリアとの戦いでも、裏ではしばしばゲルマン民族が糸を引いており、そこで登場した部族もちらほら出てきます。『ガリア戦記』もかなりオススメなので、興味のある方は下記リンクをご覧ください。
ローマの国境はライン~ドナウ線で確定
ヒスパニア(現スペイン)やガリア(現フランス)、ブリタニア(現イギリス)は帝国の属州としてローマ化されましたが、ゲルマン民族の地域にはそうした文化・文明が浸透しませんでした。そのため、彼らの風俗が現地にそのまま残っており、非常に興味深い考察を与えてくれます。
元々ローマ帝国は初代皇帝アウグストゥス(B.C.63~14)の時代、ゲルマン民族の地を征服して国境線をライン川からエルベ川まで東に拡大しようと試みたことがあります。
それは、エルベ川とドナウ川を結んだ国境線の方が、ライン川とドナウ川を結ぶよりも距離が短いため、その分だけ防衛線に割く兵力を抑えることができるとの判断からでした。単なる領土伸長への野望というより、簡単に言えばコスト削減策の一環だったわけです。
しかし、9年に起こったトイトブルク森の戦いでローマ軍は大敗。これを決定打に、アウグストゥスはエルベ川までの領土拡張を断念します。こうして、ローマ帝国の防衛線はライン川とドナウ川を繋ぐ線と定まりました。
ゲルマン国家が仏・独・伊の原型に
ただ、その後もゲルマン民族は、機を見てはローマ帝国への侵入を図ります。そして最終的には、彼らが大挙して西へと移動したことにより、476年にローマ帝国(厳密に言えば東西分裂後の西ローマ帝国)は滅亡へと追い込まれるのです。
もちろん、ローマ帝国滅亡の要因はゲルマン民族の動きだけではありません。しかし、それでもタキトゥスが帝国崩壊の400年前からゲルマン民族に細心の注意を向けていたのは、まさに慧眼と言うべきでしょう。
古代ローマ盛衰の歴史については、下記リンクで紹介した『地中海世界とローマ帝国』(講談社学術文庫「興亡の世界史」シリーズ)が分かりやすいのでオススメです。 ちなみに、ローマ帝国瓦解の際、西へと押し寄せたゲルマン民族の一つであるフランク人の建てたフランク王国が、それから更に300年の時をかけて西ヨーロッパを制します。そして、この王国が3つに分裂したことで現在のフランス・ドイツ・イタリアの原型が作られるのです。
こうした経緯から、今でもゲルマン民族の血はヨーロッパの主軸となって根付いていると言えます。言語に関しても、ラテン語から派生したスペイン語、イタリア語、フランス語に対し、ゲルマン語の影響が強い英語、ドイツ語、北欧諸語という分布になった起源はここにある。こう考えると、歴史が繋がっていることを実感できるのではないでしょうか。