日本100名城の鬼ノ城/1300年の時を超えて姿を現した古代山城

天守閣だけが城ではない

 日本の城と言えば、姫路城や松本城といった壮麗な天守閣を誇る近世城郭を想像する方が多いと思います。たとえ天守閣は現存していなくとも、巨大な石垣や塀から鉄砲を撃つための狭間に合戦の名残りを見ることができる戦国時代の城が一般的でしょう。

 しかし日本には、古代に築造された城も、遺構ながら多く残っています。それも、奈良時代(710~794)よりさらに以前、すなわち1300年以上前に建てられた代物です。今回はそんな中でも、岡山県総社市にある鬼ノ城(きのじょう)をご紹介しましょう。

 城へのアクセスや営業時間、「日本100名城」スタンプ設置場所など、基本情報のみ知りたい方は、最後の「まとめ」に記載しておきましたので、そちらをどうぞ!

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鬼ノ城・西門

山火事の跡から歴史的遺構が出現

 鬼ノ城が築城されたのは、7世紀後半大和朝廷による造営との説が有力です。1986年には国の史跡「鬼城山」の指定範囲となった他、公益財団法人日本城郭協会が選定した「日本100名城」にも入っています。

 現在の城門はもちろん、土塁なども発掘の後に再建されたものです。しかし、西門跡の敷石や石段は極めて良好な状態で築城当時のまま現存しており、城門を閉めた際に下の部分で止めておけるよう人が石を切った痕跡も、この目で見ることができます。この城の最大の見どころですね。

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良好な状態で残る敷石

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門が止まるように石を切った痕跡

 上の写真にあるような巨大な石を1300年前の人々が一生懸命運んできて設置し、城門に合わせて直角に切り、太い木の棒などを使って周りの土を固め、城壁の基礎を築いたわけです。ついつい古代に思いを馳せてしまいます。

 実はこの鬼ノ城、元々は山の一部となって埋もれていたそうです。しかし1971年に山火事が起こった際、その焼け跡から偶然にも不自然な形の石が発見されたことで、遺構の発掘調査に繋がりました。

 それまでも地元民の間では、「昔、あの山の上には城があった」という言い伝えが民間伝承のような形で伝わっていたとのこと。それが1300年の時を超えて証明されたわけですから、非常にロマンがあります。

城壁は全長2.8kmに及ぶ

 この城を訪れた際には、まず鬼城山ビジターセンターで前提となる知識を少し頭に入れておくと、より感慨が深まるでしょう。小ぢんまりとした施設ですので、さほど時間をかけずとも城に関する情報をある程度は把握できます。

 ビジターセンターを出て、完全に舗装された坂道を上って行くと、すぐに前述の西門が見えてきます。この城に来たからには、ここだけは絶対に押さえておきたいですね。

 お時間のある方は、そのまま城壁に沿って歩いて行けば、水門の跡や鍛冶場、祠、その他様々な建物があったと推測される跡地を見学できます。ただし、発掘調査の後に生えたと思われる草木が茂っていて、説明の看板が立っているにも関わらず、分かりにくい部分もありました。僕のような素人では、説明文が無ければ遺構の存在にすら気付かなかったでしょう笑

 そもそも、城壁は全長2.8kmに及びますので、それなりに歩くことは覚悟してください。また、この道は一応舗装されてはいますが、所々で岩場なども散見され、歩きにくい部分もあります。雨天時は石が滑りやすくなるでしょうし、夏の厳しい暑さと日差しに襲われながら見て回るのは少々気力がいるかもしれません。

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鬼ノ城からの風景

白村江の戦いで大敗

 さて、大和朝廷はなぜこのような中国地方の山中に城を築いたのでしょうか。実はこの城、国内の敵と戦うために造られたものではありませんでした。

 時代は7世紀後半に遡ります。当時海外(=中国や朝鮮半島諸国)から「倭国」と呼ばれていた日本は、元々朝鮮半島にも地場を持つ国でした。当時、朝鮮半島は新羅(B.C.57~935)、高句麗(B.C.1世紀頃~668)、百済(4世紀前半~660)という3つの国に分かれており、中でも特に倭国と友好関係にあったのが百済です。

 しかし660年、百済は当時中国を支配していた唐王朝(618~907)によって滅ぼされてしまいます。この際、国家復興のために同国が頼ったのが、歴史的に関係の深かった倭国でした。

 これを受けた倭国は、百済の難民を受け入れると共に、彼らを応援して唐・新羅連合軍と戦います。時は663年、歴史上「白村江の戦い」と呼ばれる戦役です。

 ただ、倭国と百済の軍はこの戦いに大敗。百済再興の夢は露と消えました。さらに唐は668年、高句麗をも滅ぼしたため、東アジア世界でこの大帝国に逆らうのは倭国のみとなったのです。

倭国、国家消滅の危機

 これに動転したのは大和朝廷です。唐が倭国征討の軍を興し、海を越えて攻めて来る可能性を真剣に考えねばならなくなりました。実は「白村江の戦い」での敗北は、モンゴル帝国による元寇、第2次世界大戦の敗戦と並び、日本が国土を失う寸前まで追い詰められた危機的状況のうちの1つだったのです。

 さて、唐軍の上陸地点として有力なのは、もちろん北九州です。しかし、万が一九州で守り切れなかった場合、敵が大和朝廷のある近畿地方に攻め寄せる上で取るであろうルートは瀬戸内海でした。当時の大量輸送手段として有効なのは船舶ですからね。

 このように国際情勢が緊迫する中、瀬戸内海沿いの各地に城を築くこととなった大和朝廷。こうした流れにあって建てられた多くの城の中の1つが、鬼ノ城だったのです。

 築城においては、当時の最新技術が駆使されたことでしょう。後進国であった倭国を助け、知恵と知識を提供してくれたのが、百済からの亡命者であったことは想像に難くありません。朝鮮半島諸国は良くも悪くも、アジアの最先端地域である中国の影響を色濃く受けてきた歴史があります。

 結果的には外交交渉が功を奏し、唐軍が倭国に攻め寄せることはありませんでした。鬼ノ城も、瀬戸内海を注視する城としてしばらくは機能していたことでしょう。それがどこかの時点で廃城となり、次第に山中へと埋もれていったと考えられます。悠久の歴史の中へ…。

鬼ノ城まとめ      

①築城者
大和朝廷説が有力

②築城年
7世紀後半と推定される

③住所
〒719-1101 岡山県総社市奥坂


④電話番号
0866-99-8566(総社市鬼城山ビジターセンター)

⑤営業時間
8:30~17:15

⑥定休日
月曜日(祝日の場合は翌日)、12月29日~1月3日

⑦登閣料
なし

⑧アクセス
・岡山自動車道 岡山総社ICから約20分、下車徒歩10分
・JR総社駅からタクシーで約30分、下車徒歩10分

⑨駐車場
普通車30台

⑩日本100名城スタンプ設置場所
鬼城山ビジターセンター内