出雲尼子氏盛衰の舞台、月山富田城/戦国屈指の要害

山陰の雄・尼子氏の本拠として栄える

 島根県にある城と言えば、国宝の松江城が有名ですが、その築城が行われる1600年代初頭まで同地の要衝であったのが月山富田城です。戦国時代、山陰の雄として大いに栄えた尼子氏の居城となり、難攻不落を誇りました。公益財団法人日本城郭協会が選定した「日本100名城」にも指定されています。

 今回は、そんな月山富田城の歴史と魅力をご紹介します。城へのアクセスや営業時間、「日本100名城」スタンプ設置場所など、基本情報のみ知りたい方は、最後の「まとめ」に記載しておきましたので、そちらをどうぞ!f:id:eichan99418:20190602195432j:plain

本丸跡までは険しい軍用道が続く

 月山富田城は、戦いの絶えなかった戦国時代にあって難攻不落と言われただけあり、城自体が強固な要害となっています。

 本丸跡まで行きつくためには、「七曲り」と呼ばれる険しい軍用道を登らねばならず、少々覚悟が必要です。ただ、この道は完全に舗装されているため、同じく中国地方の山城である吉田郡山城のような歩きにくさはありません。ゴツゴツした岩や積もった枯葉に足を取られる心配も無いでしょう。

f:id:eichan99418:20190602195509j:plain

本丸跡に続く軍用道「七曲り」

 とはいえ、やはり山道を登るのは疲れるもの。「まとめ」にも記載した通り、この城にはいくつかのアクセス方法がありますが、もし車でお越しの際は、城に向かう山道の中腹にある駐車場の利用がオススメです。約15台が駐車可能ですので、停められない事態は発生しにくいでしょうし、体力温存と時間短縮になります。

 春に登城される方は、クマバチに気を付けてください。僕が登ったのは2019年5月3日でしたが、クマバチが大量発生していて怖かったです。ただ、彼らは人間には興味が無く、自由に飛んでいるだけですので、こちらから危害を加えない限り襲われることはありません。

城の起源は平安時代末期

 月山富田城の起源は、平安時代末期の源平合戦で平家方に仕えて戦った藤原景清(?~1196)の築城とする説がありますが、定かではありません。彼は平景清、伊藤景清、悪七兵衛など様々な異名を持ちますが、その生涯自体が謎に包まれています。

 その後、鎌倉幕府の御家人である佐々木義清(1160頃~?)が、1221年に起こった承久の乱での活躍を認められ、出雲・隠岐両国の守護として下向。その際に入ったのが月山富田城でした。

 鎌倉時代には佐々木義清を始祖とする出雲源氏がこの地を治めていましたが、南北朝時代、室町時代になると領主が目まぐるしく変わり、最終的に出雲の実権を握ったのが尼子経久(1458~1541)です。

 尼子経久から家督を受け継いだ孫の尼子晴久(1514~1561)は、尼子氏を中国地方最大の大大名に育て上げます。一時は出雲、隠岐、備前、備中、備後、美作、因幡、伯耆と、山陰山陽を含む8カ国を押さえる巨大勢力を築きました。

宿敵毛利元就の軍門に降る

 しかし、そんな尼子氏にも衰亡の時がやってきます。彼らを中国地方の覇者の座から引きずり降ろしたのは、宿敵・毛利元就(1497~1571)でした。尼子晴久の代より、毛利氏の居城であった吉田郡山城を攻めたり、反対に毛利氏から月山富田城を包囲されたり、攻防を繰り返してきた両家。遂に、雌雄を決する時が訪れたのです。

 尼子晴久の息子である尼子義久(1540~1610)が尼子氏の当主となっていた1565年、月山富田城は毛利元就によって包囲されます。現在でも、実際天守跡に立って眼下に広がる景色を見遣ると、毛利の軍勢が攻め寄せる様子が想像できるようでした。

 天下の堅城を前に、流石の毛利元就も攻めあぐねましたが、兵糧攻めに切り替え、1年以上に及ぶ籠城戦の末に月山富田城は開城。ここに尼子氏は滅亡したのでした。

f:id:eichan99418:20190602195727j:plain

月山富田城からの眺望

 こうして毛利氏の支配下に置かれた月山富田城でしたが、彼らもまた豊臣秀吉(1537~1598)に従属することとなります。さらに関ヶ原の戦いの後、西軍に組した毛利氏が外様大名として長州に追いやられると、東軍に付いた堀尾氏が遠江浜松12万石から隠岐・出雲24万石に加増転封となって入国しました。

 もはや平和の時代が到来したのです。戦争のための山城では、政治・経済の中心として街を発展させるのには適さない。そう考えた堀尾氏は、宍道湖と中海の水運を活用できる要衝に松江城を築城。1611年、その落成と共に月山富田城は廃城となったのでした。

山中鹿之介ゆかりの史跡が残る

 月山富田城を居城として栄えた尼子氏を語る上で欠かせないのが、山中鹿之介の通称で有名な山中幸盛(1545~1578)です。彼は主家が滅亡した後も、3度に渡って尼子氏を再興すべく立ち上がりました。主家再興の誓いを立てた際、三笠山に懸かる三日月に向かって「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」と祈念した逸話はよく知られています。

 鹿之介は敵に捕まっても脱獄したり、東に勃興した巨大勢力である織田信長(1534~1582)と手を組んだり、最終的には豊臣秀吉の中国攻めにまで加わるなど、まさに不屈の闘志で宿敵毛利氏と戦い続けました。

 彼は衰亡した主家を見捨てずに命がけで奮闘した忠義の士として人気が高く、月山富田城の本丸跡には勝日高守神社と共に「山中鹿介幸盛記念碑」が建てられています。また、城の周辺には彼の銅像や供養塔、生誕地とされる山中屋敷跡など、山中鹿之介ゆかりの史跡には事欠きません。

 今回の趣旨とは関係ありませんが、実は月山富田城の目と鼻の先には、美しい日本庭園が世界的に有名な足立美術館もあります。この地域を観光される際には、是非こちらにも足を運んでみてください。

f:id:eichan99418:20190602195934j:plain

月山富田城の近辺には足立美術館も

月山富田城まとめ                  

①築城者
藤原景清(平景清、伊藤景清、悪七兵衛)か?

②築城年
平安時代末期(1163~1189頃と推定)

③住所
〒692-0403 安来市広瀬町富田2188

④電話番号
0854-32-2767(安来市立歴史資料館)

⑤営業時間
随時登城可能

⑥定休日
年中無休

⑦登閣料
なし

⑧アクセス
・山陰自動車道 安来ICから車で20分
・安来駅からタクシーで20分
・イエローバス「観光ループ」にて「月山入口」下車

⑨駐車場
安来市立歴史資料館:約60台
月山富田城中腹駐車場:約15台

⑩日本100名城スタンプ設置場所
安来市立歴史資料館(島根県安来市広瀬町町帳752)