都市国家から領域国家へ
歴史作家、塩野七生による大長編『ローマ人の物語』(新潮文庫)全43巻を紹介していくこのコーナー。前回の第1巻でローマは、伝説的建国、7代に渡る王政、共和政への移行を経て、「都市国家」としての体裁を整えました。
今回ご紹介する『ローマ人の物語(2)ローマは一日にして成らず(下)』(新潮文庫)では、十二表法が制定されたB.C.450年頃から、共和政ローマがイタリア半島を統一するB.C.272年までの約200年間が描かれます。
ローマ人の物語 (2) ― ローマは一日にして成らず(下) (新潮文庫)
- 作者: 塩野七生
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2002/06/01
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紀元前5世紀までは、7つの丘とその周辺地域を地盤とする都市国家に過ぎなかったローマですが、次々に他民族を下し、これを同化政策によって自国に組み込むことで、イタリア半島に覇を唱えていきました。
そして最終的には、ユリウス・カエサルが「賽は投げられた」の名言と共に渡ることとなるルビコン川を北の国境、イタリア半島の長靴の先とシチリア島の間に位置するメッシーナ海峡を南の国境とする「領域国家」ローマが誕生するのです。
ケルト族来襲で国家消滅の危機
ただし、イタリア半島統一の過程で、ローマは2度の大きな危機に直面することとなります。
1度目の危機は、B.C.390年のケルト族来襲です。この時ローマは、勇猛果敢な北方民族を前に敗北を喫し、7つの丘のうちの1つに追い詰められます。ケルト族はローマ市内で破壊と略奪の限りを尽くしましたが、幸い定住民族ではなかったことと、ローマ側が身代金を支払ったことで、7カ月に渡る占領の末に去っていきました。
しかし、ローマはこの戦後復興に数十年を要することとなります。というのも、「ローマ陥落」のニュースは瞬く間に近隣都市へと伝わり、ローマが同盟していた多くの部族の離反を招いたからです。この事件を機に、昨日までの味方が敵となってローマを攻め滅ぼそうとしてきたのでした。
これに対してローマは、マルクス・フリウス・カミッルス(B.C.446~B.C.365)に軍勢の指揮を委ねます。彼は諸事情から追放の身だったのですが、祖国の危機を救うために敗残のローマ兵を率いて駆けつけ、ローマから去ろうとしていたケルト族を蹴散らして、建国の父ロムルスに次ぐ「ローマ第2の建国者」と仰がれる存在になっていました。
戦術の才に長けたカミッルスは、離反した周囲の「元同盟国」とも戦います。そして、連戦連勝を重ねることで、ケルト族来襲の影響によって「地方の一都市国家」の状態に戻ってしまったローマの国力を回復させていったのです。
この事件はローマ人の誇りを酷く傷付け、彼らに「今後は決してローマ市街を侵略に晒さない」と誓わせました。実際、次にローマが敵の軍勢によってここまで深く攻め込まれるのは帝政末期の410年ですから、800年間はこの誓いが守られたわけですね。
戦術の天才ピュロスを撃退
2度目の危機はB.C.280~B.C.275にかけて行われたピュロス戦争です。事の発端は南イタリアにギリシア人が築いた都市タレントゥムとの争いにありました。同市に宣戦布告したローマに対し、タレントゥムは当時「戦術の天才」として名高かったエピロス王ピュロス1世(B.C.319~B.C.272)を雇って大軍を与え、ローマを攻めさせたのです。ちなみに、タレントゥムは現在でも軍港都市として有名なターラントになります。
ピュロス1世が統治していたエピロスは、ギリシア北西部に位置する王国。目と鼻の先であるイタリア半島に上陸したピュロス1世の軍に、ローマは連戦連敗を喫します。
しかし、いくら近いと言っても、すぐに軍勢の補充ができるわけではありません。本国で戦っているローマ軍と異なり、ピュロス1世の軍は戦うごとに数が減っていきました。この現象から「ピュロスの勝利」という慣用句さえ生まれたほど。意味は「損害ばかりで割に合わない勝利」のことです。
また今回は、ピュロス1世が期待したような、ローマと同盟している各都市の離反もありませんでした。100年前のケルト族来襲時と比べ、ローマと各同盟都市との信頼関係は格段に盤石なものとなっていたのです。こうして、最終的には「粘り勝ち」を手にしたローマは、見事にピュロス1世を撃退することに成功したのでした。
アレクサンドロス3世の後継者
余談ですが、ピュロス1世は当時、ギリシアからインドに跨る大帝国を築いたアレクサンドロス3世(B.C.356~B.C.323)の後継者と目されていました。彼は戦術家として天賦の才を持っていただけでなく、歴としたギリシアの王家出身者でもありましたからね。
また、ピュロス1世が活躍し始めたB.C.300年頃は、アレクサンドロス3世の死からたったの20~30年しか経っていませんでした。未だアレクサンドロス3世の偉業は多くの生き証人たちの記憶に深く刻まれており、ピュロス1世の雄姿はそれを思い起こさせたのでしょう。
後にポエニ戦争(B.C.264~B.C.146)でローマを苦しめることとなるカルタゴの将軍ハンニバル(B.C.247~B.C.183)は、「私たちの時代で最も優れた指揮官は誰か」と問われた際、こう答えたと言います。
「第1にアレクサンドロス3世、第2にピュロス1世、第3にこの私である」
ローマ史上最強の敵と呼ばれた天才が自分よりも上に置くのですから、ピュロス1世の戦術に関する実力は本物だったことでしょう。ただ彼は、局地戦では勝てても戦争には勝てなかった。このあたりにローマの強さの秘訣がありそうです。
それにしても、ハンニバルが最も偉大な指揮官としたアレクサンドロス3世が西(=ローマ)に目を向けなかったのはローマにとって幸いでしたね。彼が東方遠征を行ったのはB.C.336~B.C.323ですから、ローマがケルト族来襲による荒廃からようやく立ち直ってきた時期に当たります。このタイミングでアレクサンドロス3世と戦うことになっていたら、流石のローマも命脈は尽きていたかもしれません。
ちなみに、アレクサンドロス3世について興味のある方は、講談社学術文庫「興亡の世界史」シリーズから出ている『アレクサンドロスの征服と神話』(森谷公俊著)がオススメです。
ローマ市民権を得れば全員ローマ人
『ローマ人の物語(2)ローマは一日にして成らず[下]』では、ローマが領域国家へと飛躍していくにあたって構築した周辺都市との同盟の仕組みや、共和政の政体などについて、基本用語から詳しく解説してくれています。
共和政時代に入ると、国政のトップには執政官(コンスル)が2人同時に立つこととなりました。その任期は1年と短かったため、ここで全ての人を列挙することはできません。執政官への再選はあったにせよ、毎年それなりの人物が入れ代わり立ち代わり国のトップに立ち、それが共和政の終焉まで約500年続いたわけですから、ローマにはどれほど豊富な人材がいたのかと驚かされるばかりです。
共和政ローマがそれほど多くの人材に恵まれたのには、次のような理由があります。
1つは、領土を拡大していく過程で、昨日まで敵であった民族にも快く市民権を与え、ローマの国政に参加させたり、同盟国として自治を認めたりしたこと。まだキリスト教が生まれていなかった当時は特に、出身地も宗教も人種も関係無く、ローマ市民権を得た者は全員ローマ人でした。この多民族国家的な考え方は、現在のアメリカ合衆国に引き継がれています。
帝政ローマ期のギリシア人学者プルタルコス(46頃~127頃)も「敗者を同化する彼らのやり方くらい、ローマを強大にした要因は無かった」と言っています。
もう1つは、B.C.367年のリキニウス・セクスティウス法やB.C.287年のホルテンシウス法により、貴族と平民の間の法的な平等が実現したこと。前者は「国政のトップである執政官2人のうち1人を平民から輩出する」、後者は「平民会の決定を、元老院の承認を経ずにローマの国法とする」と定めました。
これにより、貴族と平民の間で長く続いてきた身分闘争はひとまず終結し、平民からも有能な人材が国政に関われるようになった他、挙国一致で対外政策に乗り出せるようになりました。
国家の中に3つの政体を内包
知力ではギリシア人に劣り、体力ではケルト(ガリア)人やゲルマン人に劣り、技術力ではエトルリア人に劣り、経済力ではカルタゴ人に劣る。そう自他共に認めていたローマ人が、最終的には地中海世界の覇者となるわけですが、その理由としては前述の2点に加え、古代ギリシアの歴史家ポリュビオス(B.C.204頃~B.C.125頃)が唱えた政体循環論からも興味深い示唆を得られます。
彼はギリシアの政治体制を見るに、君主政(良)→独裁政(悪)→貴族政(良)→寡頭政(悪)→民主政(良)→衆愚政(悪)のような形で、それぞれの体制が悪化と転覆を繰り返すと唱えました。
一方ローマでは、君主政(=執政官)、貴族政(=元老院)、民主政(=平民会)の全てを内包した政治システムが築かれ、互いに相乗効果を及ぼしたため、それが勝利に繋がったとしているのです。
さて、『ローマは一日にして成らず』というタイトル通り、建国から約500年を経て、ようやくイタリア半島統一まで漕ぎ着けたローマ。ピュロス1世を撃退したことで、国際的にも認知度が高まります。
ここで一段落かと思いきや、B.C.272年の半島統一から10年も経たずして、ローマは史上最大の戦争に突入するのです。そう、次巻よりついに、宿敵カルタゴとの3度に渡るポエニ戦争(B.C.264~B.C.146)が始まります。
(次巻へつづく)