ローマ人の物語(3)/大国カルタゴとのポエニ戦争勃発

第1次ポエニ戦争を描く

 歴史作家、塩野七生による大長編『ローマ人の物語』(新潮文庫)全43巻を紹介していくこのコーナー。第1~2巻では、B.C.753年にローマが建国され、B.C.509年に王政から共和政へと移行した後、B.C.272年にイタリア半島を統一するまでが描かれました。

 ここまでの歴史については、史料が豊富とは言えず、あくまで伝承に過ぎない事柄も多いため、わずか2巻にして500年の歳月を振り返る形でした。しかし、イタリア半島に覇を唱えたローマは、もはや無名の一地方都市国家ではなく、国際的に認知された領域国家となりました

 単に時代が進んだだけでなく、国家体制が整備され、他国との交流も盛んになったことで、必然的にローマに関する史料の絶対量は増えます。現代まで残っている遺物・遺構も多くなり、歴史の詳細を明らかにしやすいため、その叙述速度は今後急速に落ちていきます。

 さて、今回ご紹介する『ローマ人の物語(3)ハンニバル戦記(上)』(新潮文庫)では、第1次ポエニ戦争(B.C.264~B.C.241)と、第1次ポエニ戦争から第2次ポエニ戦争までの戦間期(B.C.241~B.C.219)が描かれます。

ローマ人の物語 (3) ― ハンニバル戦記(上) (新潮文庫)

ローマ人の物語 (3) ― ハンニバル戦記(上) (新潮文庫)

 ポエニ戦争は、共和政ローマと当時地中海世界最大の大国であったカルタゴが戦った、3度に渡る大戦争です。

 主にシチリアが戦場となった第1次ポエニ戦争(B.C.264~B.C.241)、史上有名なハンニバル(B.C.247~B.C.183)との戦いに終始した第2次ポエニ戦争(B.C.219~B.C.201)、カルタゴが完全に滅亡するに至った第3次ポエニ戦争(B.C.149~B.C.146)に分けられます。

 ちなみに、ポエニ(Poeni)とはラテン語でフェニキアを意味し、「ポエニ戦争」の名はカルタゴを建設したのがフェニキア人であったことに由来します。カルタゴの歴史についてご興味のある方は、講談社学術文庫「興亡の世界史」シリーズから出ている『通商国家カルタゴ』(栗田伸子・佐藤育子著)がオススメですので、是非読んでみてください。

覇権国との予期せぬ戦争

 B.C.272年にようやくイタリア半島を統一した共和政ローマは、そのわずか8年後のB.C.264年にはポエニ戦争に突入します。ただ、ローマ側としては、この時点で大国カルタゴとの全面戦争を行うことなど予期していなかったに違いありません。

 いくらローマがイタリア半島全域に勢力を伸ばしたとはいえ、当時地中海世界の覇権を握っていたのはカルタゴです。特に海上貿易に関して、同国はローマなど歯牙にもかけない実力を誇っていました。農業国であったローマが、海軍を持ってすらいなかったことを考えれば、その差は歴然としています。

 国際社会はもちろん、当事者であるローマの人々とて、カルタゴと戦争をして勝てるとは思っていなかったでしょうし、ましてやこの国を滅ぼそうなどという考えは毛頭ありませんでした。では、なぜこの両国は戦争に突入してしまったのでしょうか。

シチリア島内の都市国家間抗争が原因

 戦争の発端は、イタリア半島の長靴の先に密接しているシチリア島における小競り合いが原因でした。この島の東側に勢力を持っていたメッシーナ、シラクサという2つの都市国家の抗争に、ローマが巻き込まれたというのが実情です。

 ローマはメッシーナの要請に応じて、派兵を決めます。これまでイタリア半島内で戦ってきたローマ軍が海を渡るのは、史上初めてのことでした。

 メッシーナは同盟国ではないため、ローマにはこの小競り合いに一切関わらず、静観を決め込むという選択肢もありました。しかし、もしローマが派兵せねば、当時既にシチリア島の西半分を勢力圏内に入れていたカルタゴがシチリア全島を掌握するのは目に見えています。

 そうなると、ローマの制海権は今まで以上に狭まり、イタリア半島沿岸部に並び立つローマ勢力下の諸都市が権益を損なう可能性は濃厚でした。また、イタリア半島からたった3kmしか離れていないシチリア島に大国カルタゴの軍勢が常駐するとなると、その脅威は計り知れません。

 こうした事情から止む無くシチリア島への派兵を決めたローマですが、カルタゴとの全面戦争を望んでいたわけではなかったのです。ただ、言わばローマとカルタゴの緩衝地帯となっていたシチリア島の東側にローマ側が足を踏み入れた影響で、両国の間に戦端が開かれることとなりました。

f:id:eichan99418:20190627022900j:plain

現在のシチリア島

建国史上初の海戦で連勝

 それでも、陸戦であれば十分に精強であったローマ軍は、直ちにメッシーナとシラクサの争いに終止符を打ちます。それどころか、この両都市をいずれも勢力圏内とすることに成功したのです。ローマとしてはここで戦争を終わらせることもできたのですが、当然ながら今度はカルタゴが黙っていませんでした。

 シチリア島の東半分がローマ勢力圏となったことに危機感を持ったカルタゴは、ローマに対して反撃を開始。ここに至ってローマとカルタゴの全面戦争が勃発します。

 この第1次ポエニ戦争は、端的に言えばシチリア島を巡っての局地戦でした。ただし、アフリカ大陸にあるカルタゴ本国からシチリア島への補給を断つという戦略上、ローマは必然的にカルタゴと制海権を奪い合う海戦を繰り広げることになります。

 海洋貿易国家カルタゴに対して、この戦争で初めて自国の海軍を創設したばかりのローマは、アイデア力で勝負を挑みました。カルタゴ船に遭遇するや、「カラス」と呼ばれる鉤付きの渡し板で互いの船を固定し、海戦を陸戦に変えてしまったのです。前述の通り、陸戦であれば相当な実力を誇るローマ軍は、着実に勝利を掴んでいきました。

 カルタゴは確かに海上貿易の覇権を握っていましたが、長いこと海に敵がいなかったため、かえって海軍力は衰えていたのです。この敵失も、ローマ側の勝因となりました。

失敗から学んで強くなるローマ

 とは言え、全体の戦況は一進一退を繰り返しました。多くの海戦で勝利を収め、一時はシチリア全域を傘下としたローマですが、カルタゴ本国のあるアフリカにまで上陸したところで、陸戦にて敗北。さらには海難事故にも見舞われ、合計6万人の兵士を失うという大損害を被りました。

 すると今度は、ここぞとばかりにカルタゴが反攻に出ます。シチリア島に送られた名将ハミルカル・バルカ(B.C.275頃~B.C.228)は、ローマ軍に連戦連勝して島をほぼ奪い返しました。しかし、最終的にはローマ海軍がカルタゴ海軍を打ち破って完全に補給を断ち、シチリア島にいるカルタゴ軍を干し上げたことで、勝負は決しました。

 ローマが勝利した背景には、失敗から学ぶ姿勢も大きかったことと思います。それが顕著に表れているのは、「敗軍の将」に対する処遇でしょう。

 武将が戦場で負けて本国に帰還した場合、カルタゴでは敗戦の責任を取っての処刑が待っていました。しかしローマでは、少なくとも「負けた」という理由では罪に問われず、むしろ再び同じ任務に就くことが推奨されたのです。「失敗を経験したということは、次はその反省を生かして上手く事を運べるだろう」との考えからでした。

 これは、ベンチャー企業への投資にも似たところがありますね。大きな利益を上げている投資家が口を揃えて「1度も失敗をしたことが無い人よりも、何回もチャレンジして失敗を重ねてきた人の方が、最終的な成功確率は高い」と説くのは、まさに前述のローマ的な発想と言えます。

ローマへの復讐を誓った男たち

 第1次ポエニ戦争の結果、カルタゴはシチリア島の領有権を放棄し、島全域からの撤退を余儀なくされました。また、ローマの同盟都市に戦いを仕掛けないことも誓約。こうしてカルタゴは、400年間に渡って有してきたシチリア島での権益を全て失ったのです。

 ただ、この戦争での敗北によって、カルタゴが一気に海上覇権国から凋落し、滅亡への道を辿ったわけではありません。23年間に及んだ戦争は終わったのです。ローマでは平和の到来が祝われ、カルタゴでもほとんどの人間は「第2次」ポエニ戦争が起きるとは思っていませんでした

 考えてもみてください。第1次世界大戦(1914~1918)が終結した際、第2次世界大戦(1939~1945)の勃発に備えていた人などいなかったことでしょう。当然ですが、1918年から1939年までの間、「第1次世界大戦」という用語は存在せず、この戦争は単に「世界大戦(World War)」とだけ呼ばれていたのです。

 しかし、第1次ポエニ戦争が終結した時点で、ローマへの復讐を胸に秘め、既に次なる戦争への準備を進めようとしていた男がいました。降伏するつもりなど毛頭無かったにも関わらず、カルタゴ本国の敗北によって言わば「不戦敗」を突き付けられた、ハミルカル・バルカです。

 彼は幼い息子にすら「ローマを生涯の敵とする」という誓いを立てさせます。素直に父の教えに従ったこの少年こそ、後に「ローマ史上最強の敵」と恐れられるハンニバル・バルカその人でした。

次巻へつづく)