ローマ人の物語(4)/ハンニバル、イタリア半島を蹂躙

ヒスパニアから虎視眈々とローマを狙う

 歴史作家、塩野七生による大長編『ローマ人の物語』(新潮文庫)全43巻を紹介していくこのコーナー。前回の第3巻でローマは、大国カルタゴとの第1次ポエニ戦争(B.C.264~B.C.241)を戦い抜き、見事に勝利を収めました。 これでひとまず、20数年に渡る平和が訪れたのですが、ローマへの復讐を誓う人々は虎視眈々と好機を窺っていました。その中心となったのが、主戦派であったバルカ家の面々です。

 第1次ポエニ戦争においてローマ軍を追い詰めながら、カルタゴ本国が海戦に破れたため「不戦敗」のような形で撤退を余儀なくされたハミルカル・バルカ(B.C.275頃~B.C.228)は、自らの力でヒスパニア(現在のスペイン)を開拓し、地盤を築きます。

 ハミルカルが戦死すると、その娘婿のハシュドゥルバル(?~B.C.221)が跡を継ぎ、ヒスパニアを植民地とすることについて、カルタゴ本国から正式な承認を得ました。彼は新しく首都を建設し、その街は後にカルタゴ・ノヴァ(新カルタゴの意)と呼ばれることになります。同市は現在でも、スペイン海軍の基地を要する港湾都市カルタヘナとして有名です。

 政治的にも軍事的にも優秀な指導者であったハシュドゥルバルでしたが、従僕のガリア人によって暗殺されてしまいます。こうして新たにバルカ家の当主となったのが、26歳のハンニバル・バルカ(B.C.247~B.C.183)です。父に従い「ローマを生涯の敵とする」と誓ってから、約20年の時が経っていました。

 ハンニバルはヒスパニアの地固めを済ませると、満を持して共和政ローマに戦争を仕掛け、ここに第2次ポエニ戦争(B.C.219~B.C.201)の火蓋が切って落とされました。今回ご紹介する『ローマ人の物語(4)ハンニバル戦記(中)』(新潮文庫)では、主にこの第2次ポエニ戦争の前半戦、ハンニバルによるイタリア侵攻を描きます。

ローマ人の物語 (4) ― ハンニバル戦記(中) (新潮文庫)

ローマ人の物語 (4) ― ハンニバル戦記(中) (新潮文庫)

イタリア半島を主戦場とする

 ハンニバルは、ただ局地戦的な戦術に長けているだけの人物ではありませんでした。情報収集力、決断力、行動力、そして大局観を備えた名将だったのです。彼の動きを見れば、戦略が先に立ち、その後に戦術が来るのだと思い知らされます。

 ハンニバルの大目標は当然ながらローマの打倒でしたが、ローマ軍を何回か撃破するだけでは到底それが叶わないと分かっていました。何しろローマは、自国と同盟都市を合わせて何十万人という兵力を動員できたのです。したがって、ローマと同盟している各都市を離反させ、ローマを中心とした連合に楔を打つことこそ、彼の戦略でした。

 そのためには、シチリア島やヒスパニアを主戦場にしてはなりません。戦いの場は、共和政ローマの本国であるイタリア半島でなければならない。そう考えてハンニバルが決行したのが、ヒスパニアからガリア(現フランス)へと抜けた電撃的なピレネー山脈越えであり、わざわざ数十キロも迂回してのローヌ川渡河であり、冬を迎えようという厳しい季節に強行されたアルプス山脈越えだったのです。

 全ては、ローマ軍に悟られてイタリア半島の外で迎撃されることのないよう、周到に練られた計画でした。実際にローマ側は、ハンニバルの予想外の動きに対応しきれず、彼がアルプス山脈を越えてイタリア半島内に侵入するのを許します。

 ハンニバルはイタリア半島に到達すると、未だ完全にはローマの勢力下に入っていなかったガリア人を味方に付けることから始めます。さらに相次ぐ会戦での連戦連勝を地元民に見せつけることで、ローマの同盟都市に離反するよう促していくのです。

ハンニバル、次々にローマ軍を撃滅

 ハンニバル、イタリア本国内に出現。この報を受けたローマは衝撃を隠せませんでしたが、うろたえている暇は無く、迎撃のために軍団を派遣します。しかし、ローマ軍はティキヌス、トレビア、トラシメヌス湖畔、カンナエにおける4度の戦いにおいて、完膚なきまでに撃滅されてしまったのです。

 特に、B.C.216年に行われたカンナエの戦いは、歴史上ハンニバルの名を不朽のものとしました。ここで彼は、2倍の兵力を擁するローマ軍に対し、騎兵の機動力を存分に生かして圧勝します。この戦いは包囲殲滅戦のお手本とされ、2000年以上後に行われた日露戦争や第2次世界大戦でも同じ戦術が応用されました。

 このようにハンニバルは、ローマ軍を相手に連戦連勝してイタリア半島を蹂躙。完全に戦争の主導権を握ります。反対にローマは「歴史的大敗」を幾度となく繰り返した結果、ハンニバルの力を恐れるあまり、彼を相手には会戦を挑まない方針を固めました。

ローマ、徹底した持久戦を選択

 確かにハンニバルは「ローマ史上最強の敵」として歴史に名を残しましたが、裏を返せば、ローマ側にとって怖いのはハンニバルという男1人だけでした。そして、いくらハンニバルが戦争の天才であっても、会戦に訴えられなければローマの主戦力を一気に削ぐことはできません。

 また、ハンニバルの思惑に反して、ローマの同盟都市はなかなか離反しませんでした。約60年前にエピロス王ピュロス1世(B.C.319~B.C.272)が攻めた時と同様、ローマ連合の結束は固いままだったのです。

 第1次ポエニ戦争での勝利以来、地中海の制海権を握っていたローマは、カルタゴ本国からの支援を徹底的に断ち、ローマ領内でハンニバルを孤立させる持久戦を選びました。こうして、イタリア半島内に閉じ込められたハンニバルは、徐々に追い詰められることになります。

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バルカ家がヒスパニアに築いた街アクラ・レウケ

もう一人の天才、スキピオ登場

 この厳しい戦いの中で、ローマ側に華々しく登場したのが、プブリウス・コルネリウス・スキピオ(B.C.236~B.C.183頃)です。後にカルタゴ領アフリカに侵攻し、スキピオ・アフリカヌス、大スキピオなどと称されることになる彼ですが、当時はまだ25歳。しかし、その若さでローマ軍団の司令官に就きました。

 共和政ローマでは権力が1人の手に渡るのを防ぎ、元老院による集団指導体制を崩さないため、様々なルールが敷かれていました。それに照らすと本来、40歳にならなければ一軍の総指揮を執ることは許されないのですが、スキピオは元老院のお歴々を説得し、25歳にしてその地位に上ったのでした。

 スキピオは国家の期待を背負い、ハンニバルの本拠地であるヒスパニアに向けて一気に西進します。そして、B.C.209年には首都カルタゴ・ノヴァを強襲して陥落させると、続く3年の間にバエクラ、メタウルス、イリパの戦いで、ヒスパニア駐在のカルタゴ軍を壊滅させました

 この中で、同地を守っていたハンニバルの弟ハシュドゥルバルも戦死します。こうしてハンニバルは、自身が不在にしている間に、本拠地を完全に制圧されてしまったのです。

 ハンニバルのイタリア半島侵攻で始まった第2次ポエニ戦争。当初は彼にイタリア蹂躙を許したローマでしたが、スキピオの登場により反撃の機運が高まります。スキピオとハンニバル、2人の天才による直接対決が、間近に迫っていました。

次巻へつづく)