ローマ人の物語(5)/ハンニバルvsスキピオ カルタゴ滅亡へ

2人の天才が直接対決

 歴史作家、塩野七生による大長編『ローマ人の物語』(新潮文庫)全43巻を紹介していくこのコーナー。前回は第2次ポエニ戦争(B.C.219~B.C.201)前半戦として、ハンニバル・バルカ(B.C.247~B.C.183)によるイタリア半島侵攻を描きました。

 ハンニバルは半島内を縦横無尽に駆け抜け、数々の戦いでローマ軍を撃滅。従来精強で名の通っていたローマの将兵たちを翻弄しますが、彼らが消極的持久戦法に転じたことで、徐々にその勢いを失います。

 そして、もう1人の天才、スキピオ・アフリカヌス(B.C.236~B.C.183頃)が登場し、ハンニバルの本拠地であったヒスパニア(現スペイン)の地を完全に制圧。この見事なカウンターパンチが決まったところで、第4巻は幕引きとなりました。 今回ご紹介する『ローマ人の物語(5)ハンニバル戦記(下)』(新潮文庫)では、ついに2人の天才、ハンニバル・バルカとスキピオ・アフリカヌスが直接対決に及びます。決戦の地は、カルタゴにも程近い北アフリカのザマ。第2次ポエニ戦争、そしてローマとカルタゴの運命を決める戦いが、今始まります。

ローマ人の物語 (5) ― ハンニバル戦記(下) (新潮文庫)

ローマ人の物語 (5) ― ハンニバル戦記(下) (新潮文庫)

スキピオ、ハンニバルに完勝

 ヒスパニアの制圧を終えたスキピオは、「ハンニバルがイタリア半島で行ったことをカルタゴ本国で再現する」との想いを胸に、アフリカに攻め入ります。彼の勢いに、カルタゴ本国は恐れをなし、「最強のカード」であるハンニバルをイタリア半島から召還。一度は交渉が持たれたものの、これが決裂したことにより、ローマ軍とカルタゴ軍の間で会戦が行われる運びとなりました。

 B.C.202年10月19日、スキピオとハンニバルという2人の天才的名将同士が、ザマの地で決戦に及びました。結果はローマ軍の圧勝。スキピオは、14年前にハンニバルがカンナエの戦いで演じた戦術を応用し、見事にカルタゴ軍を包囲・殲滅したのでした。そして、この戦いが第2次ポエニ戦争の趨勢を決めたのです。

戦術家としての評価はハンニバルに軍配

 さて、第2次ポエニ戦争の戦後処理にあたり、スキピオとハンニバルは再び交渉役として相見えることとなりました。ここで、以前『ローマ人の物語』第2巻を取り上げた際に少しご紹介したエピソードが登場します。

 スキピオは一回り年上のハンニバルに対して、「私たちの時代で最も優れた指揮官は誰でしょうか」と質問。ハンニバルの答えは、「第1にアレクサンドロス3世、第2にピュロス1世、第3にこの私である」というものでした。

 実は、この話には続きがあります。スキピオは続けて、「もしあなたが私に勝っていたらどうでしょうか」と問うたのです。するとハンニバルは、「ピュロスを越し、アレクサンドロスも越して、私が1番に来る」と答えました。

 この逸話の信憑性は別として、ローマ人でさえ、救国の将軍スキピオよりも、自分たちを苦しめたハンニバルを、戦術家としては高く評価していたと言います。確かに、スキピオはハンニバルに会戦で勝利しましたが、彼の駆使した「敵の主力部隊を非戦力化し、完全に包囲・殲滅する」という戦術は元々ハンニバルが編み出したものです。何事も「史上初めて行った」ということに意義があるのでしょう。

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ドゥッガ遺跡

歴史の流れを大きく変えたザマの戦い

 以前もご紹介した通り、ポエニ戦争は3度に渡って行われました。ただ、主にシチリア島が戦場となった第1次ポエニ戦争(B.C.264~B.C.241)、カルタゴが完全に滅亡するに至った第3次ポエニ戦争(B.C.149~B.C.146)と比べると、特筆すべきはやはり第2次ポエニ戦争(B.C.219~B.C.201)でしょう。

 通称「ハンニバル戦争」と呼ばれた同戦争は、ローマとカルタゴが互いの命運を懸け、イタリア半島とヒスパニアで死闘を繰り広げたまさに総力戦であり、この勝利によってローマは事実上、地中海世界の覇権を確立しました。したがって、第2次ポエニ戦争の趨勢を完全に決定付けたザマの戦いは、戦史上だけでなく、広範な世界史の中でも最も重要な戦いの1つと言えます。

 反対に、ハンニバルがローマ軍を完膚無きまでに破ったカンナエの戦いは、戦史上に燦然と輝き、2000年後の日露戦争や第2次世界大戦でも応用されたほどですが、少なくとも歴史の流れを大きく変えるような役割は果たしませんでした。

同年に中国でも垓下の戦い

 ローマ史とは全く関係ありませんが、ローマのスキピオとカルタゴのハンニバルがザマの決戦に及んだB.C.202年、遠く東の中国でも、同様に歴史的意義の大きな戦いが繰り広げられていました。

 B.C.202年12月、漢の劉邦(B.C.256~B.C.195)楚の項羽(B.C.232~B.C.202)が雌雄を決した垓下の戦いがそれであり、勝者の劉邦は皇帝に即位して、その後400年間続く漢帝国(B.C.206~220)による統治を盤石なものとしました。この戦いは「四面楚歌」の故事でも有名ですね。

 ザマの戦いはB.C.202年10月19日、垓下の戦いはB.C.202年12月ですから、ほぼ同時期と言えます。垓下の戦いも、中国初の長期王朝である漢による中国大陸統一をもたらしたことを考えれば、世界史上では欠かせない重要事。東と西でほとんど同時に、東洋と西洋の古代史における趨勢を決めた戦いが行われたという事実は、偶然とは言え、非常に興味深いものがあります。

世界史的重要事が重なる年

 世界史では、偶然にも重要な出来事が重なる年があります。例えば1453年や1492年がそれに当たるでしょう。

 1453年は、5月29日にオスマン帝国(1299~1922)がコンスタンティノープル(現イスタンブル)を陥落させ、東ローマ帝国(395~1453)が滅亡した年。それと同時に、10月19日にはフランス王国とイングランド王国の間で1337年から長らく続いていた百年戦争が終結した年でもあります。

 1492年は、1月2日にスペイン帝国によってグラナダが陥落し、ナスル朝(1232~1492)が滅亡。711年にウマイヤ朝(661~750)による侵攻を受けて以来、約800年ぶりにキリスト教勢力がイベリア半島からイスラーム勢力を追い出し、レコンキスタが終結した年です。またこの年には、クリストファー・コロンブス(1451頃~1506)が8月2日にスペインを出航。10月12日には、アメリカ大陸に付随する西インド諸島に到達しました。

 ただ、歴史的意義の大きな事象が重なった上記のような年でさえ、B.C.202年と比べれば見劣りすると言わざるを得ません。

カルタゴ、地上から抹消さる

 さて、余談が過ぎました。シチリア島を舞台とした第1次ポエニ戦争、ハンニバルとの戦いに終始した第2次ポエニ戦争を勝ち抜いたローマは、B.C.146年、ついに第3次ポエニ戦争によって、120年越しでカルタゴを地上から抹消します。カルタゴの街は破壊し尽くされ、瓦礫は土にならされ、その地には草一本生えないように塩が撒かれました。

 カルタゴを攻め滅ぼした際のローマ側の将軍はスキピオ・アエミリアヌス(B.C.185~B.C.129)。スキピオ・アフリカヌスからすると、元々は「妻の甥」にあたる人物でしたが、最終的には「長男の養子」となったため、名実ともにスキピオ家に入った形です。スキピオ・アフリカヌスが「大スキピオ」と称されるのに対し、スキピオ・アエミリアヌスは「小スキピオ」と呼ばれます。

 スキピオ・アエミリアヌスは強固なカルタゴの防壁を破り、これを陥落させます。炎上するカルタゴを眼下に見据えながら、彼は哀愁を帯びつつ、歴史家のポリュビオス(B.C.204?~B.C.125?)に「あれほどの繁栄を享受したカルタゴも落日の時を迎えた。ローマも、いつの日か滅びるのだろうか」と語りました。

 彼の言う通り、地中海世界の覇者として君臨したローマも、例外無く終焉を迎えるわけですが、それはまだ600年以上も先のことになります。

 ポエニ戦争の後、旧カルタゴは「属州アフリカ」と名を変え、ローマの統治下に置かれました。そして、これと前後して、ローマはアンティゴノス朝マケドニア(B.C.306~B.C.168)を滅ぼし、セレウコス朝シリア(B.C.312~B.C.63)にも軍事的に勝利するなど、東方への勢力も拡大。紀元前2世紀中葉には、地中海世界における覇権を決定的なものとしたのでした。

 しかし、こうした領土の急拡大に伴い、ローマは内部に歪みを抱えることとなりました。これを是正すべく、2人の若者が歴史の表舞台に姿を現します。史上名高い、グラックス兄弟の登場です。

次巻へつづく)