ローマ人の物語(7)/スッラの独裁とポンペイウスの飛躍

共和政ローマ、混迷を極める

 歴史作家、塩野七生による大長編『ローマ人の物語』(新潮文庫)全43巻を紹介していくこのコーナー。カルタゴとのポエニ戦争(B.C.264~B.C.146)の後、拡大する国内の経済格差を是正すべく、共和政ローマでは多くの人々が立ち上がりました。

 最初に改革の旗を掲げたのは、グラックス兄弟です。しかし、彼らは貴族階級の既得権益であった大土地所有を制限する方向に動いたため、保守派である元老院によって封殺されます。

 続いて登場したガイウス・マリウス(B.C.157~B.C.86)は軍制改革を行い、失業者を職業軍人とすることで吸収。問題は解決したかに見えましたが、今度は「義務の平等、権利の不平等」に異議を唱えたローマの同盟都市が一斉に蜂起する結果を招きました。

 最終的にローマは、同盟諸都市にローマ市民権を付与することで戦争に決着をつけ、むしろ「都市国家の集合体」から領域国家へと脱皮していくこととなります。

 今回ご紹介する『ローマ人の物語(7)勝者の混迷(下)』(新潮文庫)では、前述の同盟市戦争(B.C.91~B.C.88)前後から話を進め、ローマが政治体制を巡って更に混迷を極めていく様子を描きます。

ローマ人の物語 (7) ― 勝者の混迷(下) (新潮文庫)

ローマ人の物語 (7) ― 勝者の混迷(下) (新潮文庫)

マリウスとスッラの抗争

 前回ご紹介したマリウスの副将に、ルキウス・コルネリウス・スッラ(B.C.138~B.C.78)という男がいました。北アフリカで反乱したヌミディア王ユグルタとの戦いで力を発揮すると、その後の同盟市戦争でも大活躍します。

 マリウスとスッラは、元々は言わば上司と部下の関係でした。しかし、この2人は最終的には因縁の仲となります。なぜなら、マリウスが彼の出自でもある平民を代表する民衆派の頭目であったのに対し、スッラは伝統的な共和政、元老院体制の維持を図ろうとする閥族派の首魁だったからです。

 マリウスは民衆派の英雄として7回も執政官に就き、一時は独裁的な権力すら持ちましたが、少人数によって政治を執り行う寡頭政を重視する元老院派にとって、この状況は好ましくありませんでした。B.C.509年に横暴な王(独裁者)を廃して共和政に移行した歴史を持つローマでは、誰かが独裁的な権力を持つことへの警戒意識が強かったのです。

 マリウスとスッラの対立は長らく続き、ローマは内戦状態と化しましす。両名は互いに敵の派閥に属すると見た人々を容赦なく殺害していったため、粛清の嵐に巻き込まれて、多くの人が命を落とすこととなりました。

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 そうした中、B.C.86年にマリウスが死去したことで民衆派は勢いを失い、スッラが独裁官に就任して秩序の回復を図りました。ただし上記の通り、スッラが目指したのは伝統的な共和政の復活ですから、彼は才能ある個人の独裁ではなく、元老院による集団統治体制こそ是としました。

 その証拠にスッラは、元老院の権力を強化する施策を次々と打ち出し、改革を成し遂げると、筋を通す形で自ら独裁官を辞任。潔く政界から引退して余生を送りました。逆説的ではありますが、スッラが行ったのは「二度と独裁者が生まれないようにするための独裁」であったと言えます。

クラッススとポンペイウスの台頭

 しかし、スッラが苦心して「修復」を施したはずの集団統治体制は、瞬く間に崩壊します。しかもそれは、民衆派の反攻ではなく、皮肉にもスッラが目をかけていた人々の活躍によって起きたのです。

 意図せずして元老院体制に楔を打ち込んでしまったうちの1人は、マルクス・リキニウス・クラッスス(B.C.115~B.C.53)という人物です。商才に長け、ローマ随一の大富豪となった彼は、自らの出世のために足りない軍功を得るべく、剣奴スパルタクスの反乱(B.C.73~B.C.71)を鎮圧しました。

 そしてもう1人は、グナエウス・ポンペイウス(B.C.106~B.C.48)。彼は地中海に横行していた海賊を殲滅した他、幾度となくローマに反旗を翻してきたポントス王ミトリダテス6世(B.C.134~B.C.64)を破って自殺に追い込みます。

 更にポンペイウスは、アレクサンドロス3世(B.C.356~B.C.323)が築いた大帝国の一部を引き継いだセレウコス朝シリア(B.C.312~B.C.63)を滅ぼし、シリアとパレスチナを平定。文字通り地中海に面する領域を全てローマの本国、属州、同盟国で固め、その覇権確立に多大な貢献を果たしました。

 このように突出した功績を挙げた2人が台頭しないはずがありません。両者は共に、共和政ローマにおける最高統治責任者であり、軍事面での最高総司令官でもある執政官に就任します。

 特にポンペイウスは、25歳の若さで凱旋式の挙行を許されたこともある最有力の将軍として、軍事力を背景に元老院に対して様々な要求を突き付けました。これでは元老院の権威もあったものではありません。

ハンニバルもローマの未来を予見

 共和政ローマがイタリア半島のみを勢力下に置いていた時代は終わりました。もはや地中海全域に及ぶ覇権国家となった以上、従来のように2人の執政官を毎年交替させ、主に元老院の面々が集団で統治していく体制は限界を迎えていたのかもしれません。

 実は、あのローマの天敵ハンニバル・バルカ(B.C.247~B.C.183)も、国家には「成長痛」とも呼べる症状が現れることを予言しています。それを要約すると、下記の通りです。

「いかに強大な国家とて、安泰であり続けることはできない。国外に対しては無敵でも、国内に敵を持つようになるからだ。これは、頑健な肉体を持つ者でも、肉体の成長についていけなかったがゆえの内臓疾患に苦しめられるのと似ている」

私兵化が内戦を激化させた

 この「成長痛」をいち早く見抜いたのがグラックス兄弟であり、「軍制改革」という特効薬をもたらしたのがマリウスでした。しかし、この軍制改革が共和政ローマの土台を揺るがすほどの劇薬であることに、マリウス本人を含め誰も気付いていなかったのです。

 彼の軍制改革は職業軍人を生みましたが、そうした人々は戦争が無ければ再び失業する運命にあります。しかし、ある意味で「支持者」である彼らを見捨てるわけにはいかない司令官は、兵士たちを自らの子飼いとして私兵化する道を採りました。

 この流れを受け、マリウスはもちろん、スッラ、クラッスス、ポンペイウスらが軍事指導者として台頭。互いに争い、内戦が激化することとなったのです。

 B.C.509年から400年以上続いてきた共和政。その崩壊の足音が、刻一刻と近づいてきました。そして次巻ついに、ローマが生んだ不世出の英雄、ガイウス・ユリウス・カエサル(B.C.100~B.C.44)が登場します。

次巻へつづく)