内乱の一世紀に天才現る
歴史作家、塩野七生による大長編『ローマ人の物語』(新潮文庫)全43巻を紹介していくこのコーナー。今回からついに、ローマが生んだ創造的天才ガイウス・ユリウス・カエサル(B.C.100~B.C.44)が登場します。
共和政ローマでは、カルタゴとのポエニ戦争(B.C.264~B.C.146)以降、拡大の一途を辿る国内の経済格差是正のため、多くの人々が奮闘しました。グラックス兄弟の改革と挫折、ガイウス・マリウス(B.C.157~B.C.86)による軍制改革は、この中で行われたわけです。
マリウスの軍制改革は、ローマの軍団を徴兵制から志願兵制に変えたことで、土地を失った農民を職業軍人として直接雇用する機会を生み、格差是正に貢献しました。しかし、一方でこの施策はローマと同盟している都市との間に「義務の平等、権利の不平等」を生み出したことから、同盟市戦争(B.C.91~B.C.88)を招きました。また、それ以上に根本的かつ深刻な事態として、共和政ローマでは有力者による私兵化が進みます。
こうした中、いつしか共和政ローマでは、統治体制を巡り、有力者同士が軍事力を背景として激しい政治闘争を繰り広げる内戦状態に陥りました。元々はマリウスの部下でありながら、最終的には彼と対立することとなったルキウス・コルネリウス・スッラ(B.C.138~B.C.78)も、そうした有力者の1人です。彼は自ら独裁を敷くことで、伝統的な少人数による統治体制である「元老院体制」の修復を図りました。
しかしスッラの死後、元老院体制は機能せず、結局はグナエウス・ポンペイウス(B.C.106~B.C.48)やマルクス・リキニウス・クラッスス(B.C.115~B.C.53)という「個人」の台頭を許したのでした。スッラは非常に有能な政治家、将軍でしたが、時代の大きな流れを見抜く力は持ち合わせていなかったのです。 この「内乱の一世紀(B.C.133~B.C.27)」と呼ばれる混迷の時代に生まれ、ローマを元老院主導の共和政から全く新しい政体である帝政へと導くことになるのが、ユリウス・カエサルです。今回ご紹介する『ローマ人の物語(8)ユリウス・カエサル ルビコン以前(上)』(新潮文庫)では、カエサルの生い立ちから、青年期までを追っていきます。
ローマ人の物語〈8〉ユリウス・カエサル ルビコン以前(上) (新潮文庫)
- 作者: 塩野七生
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2004/08/30
- メディア: 文庫
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ちなみに文庫版では、ルビコン川を渡る以前と以後を3巻ずつに分け、全6巻に渡ってカエサルの生涯が描かれます。古代ローマ史1200年のうちのわずか56年(約4.6%)という彼の人生に43巻中6巻(約14%)が捧げられているわけですから、その重要性も分かろうというものです。
もちろん、帝政ローマの事実上の創始者であるカエサルが作った制度や建造を命じた建物も多く、その後の歴史に多大なる影響を及ぼしていることを考えれば、これだけの分量が割かれていても驚くに値しません。今後、帝政に移行した後のローマが描かれる上でも、所々でその存在が見え隠れする人物です。
カエサルの飛躍は40代から
カエサルは、チンギス・ハン(1162~1227)やナポレオン・ボナパルト(1769~1821)と並び、世界史の素養が全く無い方でも誰もが知っている、歴史上最も有名な人物の1人でしょう。
ローマ史を研究してノーベル文学賞まで受賞したテオドール・モムゼン(1817~1903)は、カエサルを「ローマの生んだ唯一の創造的天才」と評しています。また、イタリアの高校で使われている教科書では、リーダーの資質として「知性、説得力、肉体上の耐久力、自己制御の能力、持続する意志」の5つを挙げた後、「カエサルだけが、その全てを持っていた」と続きます。
ただ、カエサルが飛躍し始めるまでには、少々年月が必要でした。具体的に言えば、彼が本格的に立ち上がるのは40代になってからなのです。
古代ローマ史で「英雄」と呼ばれた人物は、ポエニ戦争でカルタゴのハンニバル・バルカ(B.C.247~B.C.183)を破ってローマに勝利をもたらしたスキピオ・アフリカヌス(B.C.236~B.C.183)しかり、地中海沿岸全域にローマの覇権を確立したポンペイウスしかり、20代の若さでその才能を発揮した事例が多く見受けられます。
世界史を見渡しても、世界帝国を築いたアレクサンドロス3世(B.C.356~B.C.323)が東方遠征を開始したのは20代になったばかりの頃。中国初の統一王朝である秦朝(B.C.221~B.C.206)を打倒した項羽(B.C.232~B.C.202)も、秦を滅ぼした時点でわずか26歳です。こう考えると、カエサルは世界の英雄たちの中では「遅咲き」の部類に入るでしょう。
巨額の借金と女癖の悪さで有名に
前述の通り、カエサルが誕生したB.C.100年当時、共和政ローマは「内乱の一世紀」の真っ只中でした。マリウス率いる民衆派とスッラ率いる閥族派の争いにおいて、マリウスと縁戚に当たったカエサルは「民衆派」の一人としてスッラの処刑者リストに名を連ね、亡命を余儀なくされます。
このほとぼりが冷めてようやく首都ローマに帰還した彼は、軍の士官職となったものの、鳴かず飛ばず。キャリアとしてはあくまで平凡だった若きカエサルを有名にしたのは、巨額の借金と女癖の悪さという具合で、「英雄」には程遠い存在でした。
元老院最終勧告に反対
ただ、当時からカエサルが政治的には首尾一貫して「反元老院的」な態度を取り続けていたことは事実です。それは、ルキウス・セルギウス・カティリーナ(B.C.110頃~B.C.62)が共和政ローマ転覆の謀、通称「カティリーナの陰謀」を引き起こした際の態度にもよく表れています。
この時に元老院は、共和政を脅かす人物に対する最後通牒である「元老院最終勧告」を発令しますが、カエサルはこれに反対。カティリーナが反乱しようとしている証拠が不十分であったことに加え、この「元老院最終勧告」自体が違法であるというのがカエサルの考えでした。
ちなみに「元老院最終勧告」は、グラックス兄弟の弟、ガイウス・センプロニウス・グラックス(B.C.154~B.C.121)に対して発令されたのが最初で、これによって彼は自害。支持者も尽く殺害されました。
このように「元老院最終勧告」は、必ずしも国家ローマへの明らかな反逆者に対するものではなく、元老院が目障りと考えた人間を葬り去るための武器として機能していたのも確かです。カエサル自身、最終的にはこの「元老院最終勧告」の刃を向けられることになるのですが、それはまた後に語りましょう。
さて、40代になるまでは言わば不名誉な目立ち方しかしていなかったカエサルが、どのように「英雄」として飛躍していくのか。次巻よりついに、世界がカエサルを中心に回り始めます。
(次巻へつづく)