ローマ人の物語(9)/カエサル、三頭政治とガリア遠征で跳躍

天才カエサル、ついに動く

 歴史作家、塩野七生による大長編『ローマ人の物語』(新潮文庫)全43巻を紹介していくこのコーナー。前回から、ガイウス・ユリウス・カエサル(B.C.100~B.C.44)の生涯を追っています。

「ローマが生んだ創造的天才」とまで呼ばれ、間違いなく世界史上で最も有名な人物の1人に挙げられるカエサルですが、頭角を現すのは40代に入ってから。カエサルのような野望があるわけではありませんが、彼ほどの男でも20代はおろか、30代になってすら何者でもなかったと思うと、少し勇気をもらえます。 ただ、カエサルが40代に入るや、世界は彼を中心に回り始めます。今回ご紹介する『ローマ人の物語(9)ユリウス・カエサル ルビコン以前(中)』(新潮文庫)では、カエサルがどのように権力を手中にしていったか、その布石を見ていきます。

ローマ人の物語〈9〉ユリウス・カエサル ルビコン以前(中) (新潮文庫)

ローマ人の物語〈9〉ユリウス・カエサル ルビコン以前(中) (新潮文庫)

三頭政治で表舞台に登場

 まずカエサルが行ったのは、史上有名な「三頭政治」です。当時ローマ最高の軍司令官であったグナエウス・ポンペイウス(B.C.106~B.C.48)、経済界のドンであるマルクス・リキニウス・クラッスス(B.C.115~B.C.53)と組むことで、政治の表舞台への足掛かりを得ました。

 この当時、未だ「何者でもなかった」カエサルは、全く大物と呼べるような存在ではありませんでした。しかし、「元老院派」の首魁ルキウス・コルネリウス・スッラ(B.C.138~B.C.78)によって大部分が粛清されたはずであった「民衆派」の新たなる星として、大衆から絶大な支持を受けていたため、辛うじて他の2人と並ぶことができました。

 また、カエサルが持ち前のバランス感覚を生かして、犬猿の仲であったポンペイウスとクラッススの間に入り、上手く利害関係を調整したことも、彼がこの大物2人と対等な関係を築けた理由の1つです。

元老院体制に対抗

 カエサル、ポンペイウス、クラッススの3者が各々の利益を享受した三頭政治ですが、その真の意義は、共和政ローマの権力を握る元老院体制とは対極に位置する政治体制が萌芽したという事実です。3人で協力しているとはいえ、三頭政治は「台頭する個人による権力の独占」ですから、元老院主導の寡頭政とは真逆の存在と言えるでしょう。

 少なくともカエサルは、この意義を理解した上で、意図的に三頭政治を仕掛けていました。前回紹介した「元老院最終勧告」への態度でも明らかなように、彼には元老院体制を突き崩そうとしてきた「前科」があります。カエサルは当初より「元老院主導の共和政では、もはや大国ローマを統治できない」と考えていたのです。

 ただ、元々スッラの門下であったポンペイウス、ビジネスは得意でも政治力に欠けていたクラッススの両者は、目の前の権益には敏感でも、三頭政治の真の意義には気付いていなかったのかもしれません。

 いずれにせよ、こうしてカエサルは、他者を上手く使った言わば「テコの原理」で、共和政ローマのトップである執政官に就任。B.C.59年、41歳にして、自らの考えを政策として実現していくこととなります。f:id:eichan99418:20190816033757j:plain

グラックス兄弟の無念を晴らす

 カエサルが通した法律の中でも特筆すべきは、農地法でしょう。この法律は、大土地所有の制限、無産市民への土地分配などを基礎とし、没落した農民を農地に復帰させることで、経済格差の改善を図ったもの。当時から遡ること60~70年前、グラックス兄弟によって提出された法案の改訂版です。

 グラックス兄弟の改革の際は、彼らがこの法案を出した瞬間に争点となり、ローマでは大激論が巻き起こりました。特に、大土地所有によって利益を得ていた貴族階級から成る元老院の反対は凄まじく、最終的には兄弟とも死に追いやった禁断の法です。このグラックス兄弟の改革から、共和政ローマは「内乱の一世紀」に突入しました。 カエサルは、この農地法に元老院側もある程度飲みやすいような改訂を施し、ローマ最有力の人物であるポンペイウスの力も借りて、見事に法案を通しました。

 グラックス兄弟が平民の代表者である護民官として「反体制」の側から法案を成立させようとしたのに対し、カエサルは共和政ローマの代表者たる執政官としてこれを提案。さらに、法案の細かい部分を詰めていく委員会には反対派である元老院側の人間も加えるなど、「ローマの将来を考えた超党派の政策」であることを打ち出した点も、法案が通過した大きな要因です。

名著『ガリア戦記』

 さて、任期が1年と決まっている執政官を務め上げたカエサルは、B.C.58年、42歳でガリア(現フランス)の属州総督に就任。ここから8年間に及ぶガリア戦役を戦い抜き、彼の地を平定して一気に名を上げることとなります。彼がこの戦いを描写した『ガリア戦記』は有名ですよね。

 カエサルはガリアで、毎年のように戦いを繰り返しました。それぞれの戦いの原因や経過について詳しく知りたい方は、本書『ローマ人の物語(9)ユリウス・カエサル ルビコン以前(中)』や『ガリア戦記』を読んでみてください。カエサルの驚嘆すべき合理性、先見性、人心掌握術などに触れることができます。

子飼いの軍事力を手に入れる

 カエサルのガリア遠征も、その華々しい戦いに目が行きがちですが、「共和政ローマによるガリアの属州化」の他に、ローマ史上重要な意味を持つ出来事でした。それは「カエサルが自ら率いる子飼いの軍事力を持った」ということです。

 共和政ローマの統治機構上、属州で反乱でも起こされれば困りますから、通常ならば属州総督は任期1年であり、軍団を率いてイタリア半島のローマ本国に入ることは許されません。ところが、ガリアの属州総督としてカエサルに与えられた任期は5年(B.C.58~B.C.54)。しかも、4個軍団(2万4000人)を指揮下に置けることも合法的に決まります。これも、三頭政治の賜物でした。

 さらにB.C.56年、カエサル、ポンペイウス、クラッススの3人で行われたルッカ会談によって、3人はそれぞれ10個軍団(6万人)を持つことで合意します。この際には、従来元老院に決定権があった属州総督としての赴任地も3人で勝手に決めてしまったのですから、「三頭政治ここに極まれり」です。

 これにより、当然カエサルは戦役続行中のガリア属州、ポンペイウスは北アフリカにも影響力を持つヒスパニア属州(現スペイン)、クラッススは大国パルティア(B.C.247~224)と国境を接するシリア属州を担当することが決定しました。ちなみに任期は、全員一律でB.C.50年末まで。これによりカエサルは、当初の任期を4年延ばし、しばらくはガリア平定に専念します。

 こうして着々と権力、軍事力、人望、名声を獲得していったカエサル。「国防を担う」という名目で編成し、ガリア戦役を戦い抜いた屈強な軍団を率いて、最終的には共和政ローマと元老院に牙を剥くこととなるのです。

次巻へつづく)