出羽の要、山形城(後編)/寡兵で直江兼続を撃退した霞城

 ここでは「出羽の要、山形城(前編)/最上義光雄飛の拠点」に引き続き、山形城と最上氏の歴史を紹介していきます。城へのアクセスや営業時間、「日本100名城」スタンプ設置場所など、基本情報のみ知りたい方は、最後の「まとめ」をご覧いただければ幸いです。

宿敵は伊達ではなく上杉

 同じ「東北の雄」ということで、最上義光(1546~1614)の敵としては伊達政宗(1567~1636)が想起されがちです。しかし、前述の通り2人は叔父と甥の関係であり、確かに因縁のライバルではありましたが、直接的に干戈を交えてはいません

 強いて言えば、「敵側に援軍を差し向ける」「救援に駆け付けながら、積極的には味方しない」など、婉曲的な小競り合いに止まり、一度両者の間で戦端が開かれようとした際には、義姫(=最上義光の妹、伊達政宗の母)の嘆願で回避するに至っています。

 むしろ、最上義光が戦った相手として最も有名なのは、上杉景勝(1556~1623)の家臣として知られる智将、直江兼続(1560~1620)です。最上氏は、縁戚に当たる伊達氏よりも、庄内地方の領有を巡って争ってきた上杉氏との方が、よほど険悪な関係にありました。そして1600年、両者は大々的に激闘を繰り広げることとなります。

f:id:eichan99418:20190910201922j:plain

最上義光の宿敵は直江兼続

「北の関ヶ原」開戦

 事の発端は、豊臣秀吉(1537~1598)の死後、着々と天下への布石を打つ徳川家康(1543~1616)による上杉景勝討伐でした。この隙を突く形で石田三成(1560~1600)が西方にて挙兵。徳川家康は下野(現在の栃木県)の小山にて軍議を開き、上杉討伐を中断して西へ向かうことを決定します。いわゆる「小山評定」ですね。この後、徳川家康と石田三成は岐阜の地で激突。関ヶ原の戦いが勃発します。

 徳川家康が西へと軍を反転させる際、直江兼続は徳川軍に対する追撃を主張したものの、主君である上杉景勝は首を縦に振りませんでした。彼は家臣からの献策に対して、あまり「NO」とは言わない人物でしたが、この時ばかりは直江兼続の意見に反対したのです。

 理由は諸々あるのでしょうが、よく言われるのは、上杉景勝が「敵を背後から襲うなど卑怯な真似をすると、上杉の義が立たない」と考えたというもの。今風に言えば、上杉氏の持つ清廉なブランドイメージが傷付くのを恐れたわけであり、ソフトパワーを重視した結果の判断でした。

 一方、徳川家康も軍勢を返す際には、東北の諸将に上杉景勝の牽制を命じています。ただ、事ここに至って東北勢の足並みは揃わず、結果的に最上義光はたった1人で上杉軍を相手取ることとなりました。後に「北の関ヶ原」と称される慶長出羽合戦の始まりです。

最上義光vs直江兼続

 豊臣を守る五大老の1人として、会津藩120万石を擁する上杉軍は約2万5000人。率いるのは直江兼続です。これに対して、最上軍が割くことのできた兵力はたった3000人余りでした。最上領に侵攻した上杉軍は、圧倒的な兵力で次々と城を陥落させ、最上義光の本拠である山形城に迫ります。

 ただ、最上勢も負けてはいません。上山城、湯沢城などは家臣たちの奮戦によって守り抜かれました。特に、山形城の要である長谷堂城では激戦が繰り広げられましたが、最上軍は1000人程度の兵力で持ちこたえます。

 ちなみに、山形城は別名「霞城(かじょう)」とも呼ばれるのですが、その名付け親は宿敵の直江兼続です。慶長出羽合戦において、彼が山形城にいる最上軍の兵力や陣容を確かめようとしたところ、霞がかかってよく見えず、「霞城」と呼んだことに由来します。

f:id:eichan99418:20190910202105j:plain

山形駅直結の霞城セントラルから山形城を空撮

徳川家康の天下取りに貢献

 そして、関ヶ原の戦いから2週間あまり経った9月末、ようやく東北にもその勝敗の結果がもたらされました。西軍敗退の報を受け、直江兼続は撤退を開始。最上義光はこれを追撃しましたが、直江兼続の首を取ることはできませんでした。古来より撤退戦は最も難しいとされますが、直江兼続の引き際は極めて鮮やかで、最上義光も敵ながら賞賛を惜しまなかったと言います。

 最上義光は、この追撃戦で兜に鉄砲玉を受けました。最上義光歴史館では、実際に弾丸の跡が残る兜を見ることができます。この兜は、最上義光が織田信長(1534~1582)から拝領した自慢の品だったそうで、立派に主人の命を守り、役目を果たしました。

 関ヶ原の戦いの勝負がわずか半日で着いたとはいえ、最上義光が上杉軍を東北でくぎ付けにした意義は大きなものでした。上杉景勝と石田三成による挟撃が成っていれば、徳川家康が天下を取れたか分かりません。徳川家康の感謝のほどは、最上義光が関ヶ原の戦後処理において大幅な石高の加増を認められたことからも明らかです。

大大名から旗本に転落

 こうして山形藩57万石を安堵された最上義光ですが、栄光は長く続きません。最上義光は当初、長男の最上義康(1575~1603)を後継者とするつもりでした。しかし、両者の仲は次第に険悪となり、彼は次男の最上家親(1582~1617)に家督を譲るため、最上義康を亡きものとしてしまいます。

 最上家親は、若くから徳川家康の近侍として仕え、彼から「家」の字をもらうほど気に入られていました。山形藩は57万石の大国ですから、徳川家康としては、自身の息のかかった人物を藩主に据えておきたいと思うのは当然。最上義光は徳川家康から直接命じられたわけではありませんでしたが、天下人に忖度して次男に家督が渡るようにしたという事情もあります。

 しかし、この判断は裏目に出ます。最上家親は、父である最上義光が死去して第2代山形藩主となるも、わずか3年で亡くなってしまうのです。この結果、最上家親の子である最上義俊(1605~1632)が第3代山形藩主となりますが、彼はまだ13歳と若く、藩主の器ではないとして家臣団が反発。最上義光の四男(最上義俊の大叔父)である最上光茂(1588~1665)が擁立され、ここに御家騒動が起きました。

 通称「最上騒動」と呼ばれたこの事件の結果、最上氏は山形藩57万石を改易となり、所領は没収。最上義俊は、わずか1万石の近江大森藩(現在の滋賀県)に入封することとなりました。さらに、彼が27歳で死去すると、長男の最上義智(1631~1697)が跡を継ぎますが、まだ幼子ということで、所領は5000石に減封。ここまで来ると、もはや大名ですらなく、旗本と呼ばれる身分です。

最上光茂、水戸黄門の養育係に

 最上騒動で最上義俊と争った最上光茂も、数奇な運命を辿ります。便宜上、ここまで名前を最上光茂と表記してきましたが、彼は事件の段階では既に山野辺氏を継いでいたので、山野辺義忠と名を変えていました。家臣団に担がれるだけあり、彼は自身の所領では善政を敷いていたようです。

 しかし前述の通り、最上騒動の結果、最上氏は故郷の山形を追われます。特に山野辺義忠(=最上光茂)は当事者の1人であったことから、流罪となってしまいました。

 彼は1622~1633年にかけて12年間の幽閉生活を送った後、江戸幕府第3代将軍の徳川家光(1604~1651)によって許され、水戸藩のお預かりとなります。最終的には1万石を与えられ、家老職に就任。そしてなんと、「水戸黄門」として名高い徳川光圀(1628~1701)の養育係を務めたのです。

f:id:eichan99418:20190910202330j:plain

 テレビドラマ「水戸黄門」にも山野辺兵庫という家老が登場し、水戸黄門が「山野辺!」と呼ぶシーンがあるらしいのですが、これはこの山野辺義忠の子孫に相違ありません。あくまでモデルなので、年齢設定などには矛盾が生じますが、山野辺義忠の子である山野辺義堅(1615~1669)か、孫の山野辺義清(1656~1704)と推察されます。

 このように、実力のある一族や家臣は、藩がお取り潰しにあって一度浪人の身となりながらも、仕官の道に就き、逞しく生きていったのです。

300年間の努力が水泡に帰す

 最上義光の徳川家康に対する功績は、広く認められていました。そのため、最上騒動の折も、幕府は何とか仲裁しようと努めたのです。しかし、当事者が両者共に譲らず、結果的に最上氏は最上義光の死からわずか8年で、故郷の地を追われることとなってしまいました。

 南北朝時代より羽州探題として東北の要となり、戦国時代に入ってからは実力で領土を守ってきた最上氏。300年間の努力、苦労、犠牲の末、ついに大大名としての地位と所領を手に入れ、ようやく今後250年に渡る泰平の世が訪れようという矢先に、江戸幕府の命令1つでお取り潰しとは、何とも呆気無いものがあります。

 その後、山形藩は幕府の重鎮や、将軍家に連なる松平家によって治められることとなりました。中でも松平直矩(1642~1695)は、多くの国替えを強いられたことから「引っ越し大名」の名で知られ、2019年8月末には彼を題材とした映画も公開されています。

 また、山形藩を最後に治めていた水野忠精(1832~1884)、水野忠弘(1856~1905)は、「天保の改革」で有名な水野忠邦(1794~1851)の子、孫に当たります。

f:id:eichan99418:20190910031122j:plain

 それでも、山形県民にとって山形城と言えば、やはり最上義光なのでしょう。城内にあって猛々しく馬を駆る彼の銅像が、それを示しています。

 この段には、あえて「300年間の努力が水泡に帰す」という小見出しを付けましたが、僕は最上氏の努力は決して無駄になっていないと思います。確かに、彼らは先祖代々の所領を失い、一族郎党は各地に離散しました。しかし、彼らの築いた歴史は人々の心に宿り、今なおロマンをかき立てます。その歴史を学び伝える語り部がいる限り、これからもその炎は燃え続け、最上の名は永遠となることでしょう。

山形城まとめ              

①築城者
斯波兼頼(羽州探題最上氏の祖)

②築城年
1357年

③住所
〒990-0826 山形県山形市霞城町

④電話番号
023-641-1212(まちづくり政策部公園緑地課)
023-644-0253(山形市郷土館)
023-625-7101(最上義光歴史館)

⑤営業時間
・霞城公園
4月1日~10月31日:5:00~22:00
11月1日~3月31日:5:30~22:00

・山形市郷土館
9:00~16:30

・最上義光歴史館
9:00~17:00(入館受付は16:30まで)

⑥定休日
霞城公園は年中無休

⑦入園料
無料

⑧アクセス
・JR山形駅から徒歩10~15分
・ベニちゃんバス「霞城公園前」下車
・山形自動車道 山形蔵王ICから車で15~20分
※車両の出入は北門からのみ

⑨駐車場
霞城公園内の駐車場を無料で利用可能:230台
※身体障がい者等用5台、バス用5台

⑩日本100名城スタンプ設置場所
・山形城跡二ノ丸東大手門櫓(霞城公園内)
・山形市郷土館(霞城公園内)
・最上義光歴史館(山形県山形市大手町1-53)