佐竹氏12代の居城、久保田城/江戸~明治初期まで秋田統治

270年の歴史が詰まる

 秋田県秋田市、JR奥羽本線・羽越本線・秋田新幹線の停車する秋田駅から15分も歩けば、江戸時代~明治時代初期まで秋田統治の拠点であった久保田城に至ります。天守閣こそありませんが、約270年間に渡ってこの地を治めた佐竹氏の歴史が詰まった城郭として、見どころ満載です。

 今回は、公益財団法人日本城郭協会が選定した「日本100名城」にも指定されている久保田城と、佐竹氏にまつわるエピソードをご紹介していきます。城へのアクセスや営業時間、「日本100名城」スタンプ設置場所など、基本情報のみ知りたい方は、最後の「まとめ」に記載しておきましたので、そちらをどうぞ!

御隅櫓・表門・御物頭御番所は必見

 久保田城最大の見どころと言えば、復元された御隅櫓でしょう。北西に向かって伸びる坂を上っていくと、木の陰から姿を現す、美しい建造物です。日本城郭の代名詞である天守閣ほどの大きさはありませんが、内部にはきちんとした展示もあり、勉強になります。最上階にはエレベーターで上ることが可能。素晴らしい眺めを堪能できます。

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久保田城御隅櫓

 久保田城本丸の正門であった表門も、荘厳な構えで出迎えてくれます。忘れずに見ておきたいのは、この門の石段近くに建っている御物頭御番所。今で言うところの警備員がここに詰めて、門の開閉や登城者の管理を行っていました。

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表門(久保田城本丸の正門)

 実はこの久保田城、1880年の大火事でほとんどの建物が燃えてしまいました。そんな中でも御物頭御番所は、1758年に焼失した直後に再建され、それ以降は火災を免れているとのことで、18世紀後半当時の様子を垣間見られる唯一の建物となっています。

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御物頭御番所

 また「久保田城跡」として、全ての史跡を内包する千秋公園自体が、秋田市の名勝に指定されています。本公園は「日本初の公園デザイナー」と称される造園家の長岡安平(1842~1925)によって設計され、1897年に完成しました。城跡を本格的に公園化した全国初の試みとして、「近代公園の先駆け」であることが評価されたわけです。

清和源氏の流れを汲む佐竹義宣が築城

 さて、この久保田城を築いたのは、戦国武将の佐竹義宣(1570~1633)です。ただ、彼自身は秋田の人ではありません。元々佐竹氏は、常陸(現在の茨城県)に勢力を持つ戦国大名家の1つでした。

 佐竹氏は清和源氏の流れを汲む名族で、源義光(1045~1127)を始祖としています。源義光は「八幡太郎」の名で知られる源義家(1039~1106)を兄に持ち、義家の直系の子孫が鎌倉幕府初代将軍の源頼朝(1147~1199)という事実を考えれば、武家としてはかなり格の高い家柄であることが分かります。

 また、佐竹義宣の母は伊達晴宗(1519~1578)の娘です。彼女は伊達輝宗(1544~1585)の妹であり、後に奥州の覇者となる伊達政宗(1567~1636)の叔母ですから、佐竹義宣と伊達政宗は従兄弟同士ということになります。

豊臣政権の六大将に

 しかし、時は戦国時代。従兄弟と言えども容赦はありません。佐竹氏と伊達氏は、南奥州を巡って戦争状態にありました。手強い伊達政宗に対抗するため、佐竹義宣は天下統一に向けて驀進中の豊臣秀吉(1537~1598)と接触します。

 1590年に行われた後北条氏に対する小田原攻めでは、後北条氏の城を落としながら豊臣秀吉の下に参陣し、臣下の礼を取りました。その後、石田三成(1560~1600)指揮下で戦い、無事に天下統一を迎えます。

 今や佐竹氏は、徳川氏、前田氏、上杉氏、毛利氏、島津氏と共に「豊臣政権の六大将」に数えられるまでになりました。こうした中で佐竹義宣は、水戸城を攻略して本拠とし、常陸を掌握。朝鮮出兵や伏見城普請での功績も認められ、常陸54万石を安堵されることとなります。

徳川家康により秋田に転封

 ただ、これで天下は定まりませんでした。豊臣秀吉の死後、徳川家康(1543~1616)と石田三成の間で起こった関ヶ原の戦いにおいて、佐竹義宣は「どっち付かず」の態度を取ります。

 徳川家康が発した会津の上杉景勝(1556~1623)征伐のための招集令に応じ、京都に上洛したものの、実際には戦闘を行わず、水戸城に引き上げてしまったのです。上杉景勝との関係は良好でしたから、両者の間に密約があったとする説もあります。

 いずれにせよ、関ヶ原の戦いは徳川家康率いる東軍の勝利に終わりました。言わば中立の態度を取った佐竹義宣は、積極的に東軍に加担しなかった理由について、釈明に追われる身となります。

 やはり、旗幟を鮮明にしなかったことが災いしたのでしょう。戦後処理において佐竹氏は、常陸54万石から秋田20万石への減封となりました。ただ、たとえ東軍に付いていたとしても、「江戸に近い常陸に大大名が勢力を誇っているのでは幕府にとって不都合だ」と徳川家康が考えた可能性も十分にあります。

 その証拠に、佐竹氏の居城であった水戸城には、徳川御三家の1つである水戸徳川家が入ります。「水戸黄門」として有名な徳川光圀(1628~1701)や、江戸幕府の第15代将軍となった徳川慶喜(1837~1913)の父である徳川斉昭(1800~1860)は、この家系の出身です。

 さて、秋田の地に入ることとなった佐竹義宣は、それまで同地の拠点とされてきた湊城を放棄。こうして新たに築かれたのが、久保田城です。その築城手法は、佐竹氏に縁の深い水戸城によく似ていると言われます。

石田三成と深い親交

 ここで少し、関ヶ原の戦いの折に話を戻しましょう。僕は、佐竹義宣の個人的な心情としては、石田三成の側に付きたかったのではないかと思います。

 佐竹義宣が初めて豊臣秀吉に通じようとした際、親交を深めたのが石田三成でした。また前述の通り、小田原攻めの際に佐竹義宣は石田三成の下で戦っています。当時は佐竹義宣20歳、石田三成30歳というところですから、戦友であり、兄貴分・弟分として、お互いに肝胆相照らす仲となってもおかしくはありません。

 また、実は佐竹氏には、豊臣秀吉による改易の危機がありました。しかしその際には、石田三成が取り成したことで、命令が撤回されるに至っています。これに深く感謝した佐竹義宣は、徳川家康と近しい加藤清正(1562~1611)や福島正則(1561~1624)らによって石田三成の屋敷が襲撃された際、彼を女輿に乗せて脱出させ、見事に恩を返しました。

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石田三成ゆかりの舟型手水鉢

 久保田城内にある茶室「宣庵」の庭に置かれた舟形の手水鉢も、石田三成ゆかりの品です。これは、朝鮮出兵の際に加藤清正が持ち帰ったという代物で、豊臣秀吉に献上されて大阪城内に置かれていました。石田三成は、これが佐竹義宣の手に渡るように取り計らったのです。

 佐竹義宣は、千利休(1522~1591)の一番弟子と言われる古田織部(1543~1615)を師匠とするほど茶の湯に傾倒していました。石田三成は、当然それを知っていたのでしょう。僕も実物に触れてみましたが、石でできているため、かなりの重さです。これを常陸から秋田までわざわざ運んでいったのですから、よほど気に入っていたことが分かります。

 これだけ深い親交が石田三成との間にあったとなれば、関ヶ原の戦いでは西軍に付いてもおかしくはなかったはず。それでも佐竹義宣には「乱世を生き延びて佐竹の家を守る」という何にも代えがたい義務がありました。

 東国の大名ほど、関八州250万石を有する徳川家康の力はひしひしと感じていました。石田三成への恩義はあれど、個人的な心情だけでは動けないという中で下した苦渋の決断が「どちらにも付かない」というものだったのかもしれません。

平賀源内を招聘して鉱山開発

 最終的に秋田20万石に封ぜられた佐竹義宣。先祖代々の土地を追われ、石高は大幅に減らされたものの、佐竹氏は1871年の廃藩置県まで、約270年間に渡って久保田城で政務を執り続けました。

 歴代藩主が奨励に努めた秋田の産業として、鉱山の開発があります。秋田は非常に多くの金山・銀山に恵まれていました。

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秋田は金山・銀山の宝庫だった

 こうした鉱山開発の技術指導のため、秋田を訪れた中には、発明家として名高い平賀源内(1728~1780)もおりました。久保田藩第8代藩主の佐竹義敦(1748~1785)が、1773年に招聘したとの記録が残っています。

『解体新書』の図を描いた小田野直武

 この際、平賀源内によって秋田に西洋画がもたらされました。久保田藩士で絵画の才能があった小田野直武(1750~1780)はこれを学び、遠近法や陰影法を習得。そして、前野良沢(1723~1803)や杉田玄白(1733~1817)らによる医学書『ターヘル・アナトミア』の日本語訳『解体新書』の挿入図を描くこととなります。

 また、小田野直武は、藩主の佐竹義敦にも西洋画法を伝授。佐竹義敦も絵画に並々ならぬ関心を持っていた人物で、元より日本絵画の正統派とされていた狩野派から絵を学んでいました。彼は自らの名前を「佐竹曙山」と号して絵を嗜み、芸術への造詣が深かったことから、小田野直武と共に日本初の西洋画論『画法綱領』『画図理解』を著しています。

 佐竹義敦の芸術的才能は、嫡子で第9代藩主の佐竹義和(1775~1815)にも受け継がれ、彼も詩歌や書画を振興しました。佐竹義和自身は、参勤交代時の紀行文などを残しています。

 ちなみに、佐竹義敦の絵は千秋公園内にある 秋田市立佐竹史料館で展示されています。こちらには「日本100名城」スタンプも設置されていますので、収集されている方は一石二鳥です。

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秋田市立佐竹史料館

山形藩最上氏と明暗が分かれる

 確かに佐竹氏は、関ヶ原の戦いにおいて「どっち付かず」の態度を取ったため、常陸54万石から秋田20万石に減封されてしまいました。しかし僕は、それを自業自得だと蔑む気にはなりません。厳しい戦国時代を生き抜く上で、これも1つの世渡り方法であると言えるからです。

 石田三成との関係を抜きにして、戦略的観点から考えても、佐竹義宣は「ギャンブル」をしなかっただけではないでしょうか。彼は「負け組」に付いて御家が断絶するリスクを背負うよりも、多少領地を削られようと家系を保つ道を選んだのです。

 世渡りの方法は、人それぞれです。最近のNHK大河ドラマで例えれば、真田氏は兄弟で別々の勢力に分かれることで家を守りました。井伊氏など、一度は所領も家臣も失いながら、最後は徳川氏という「勝ち組」に付き、大名家として華麗なる復活を果たしました。

 佐竹氏は故郷を追われ、領地を減らされながらも、家を守り抜き、最終的には明治時代まで大名として秋田を治めました。一方、お隣である山形藩の最上氏は、当初より徳川家康に付き、57万石という大きな所領を安堵されたものの、御家騒動を起こしてわずか20年でお取り潰しとなっています。

 出自も定かでないような家系ながら、天下に飛躍した者。先祖代々の土地を追われるも、大名として存続した者。由緒正しい家柄にも関わらず、命脈を断たれた者。城を巡りつつ、特に戦国から江戸時代にかけての動乱に想いを馳せると、それぞれの持つ物語、悲喜劇に心を震わせられます。

久保田城まとめ  

①築城者
佐竹義宣

②築城年
1604年

③住所
〒010-0876 秋田県秋田市千秋公園1-39

④電話番号
018-888-5753(秋田市建設部公園課)
018-832-7892(秋田市立佐竹史料館)

⑤営業時間
・千秋公園(久保田城跡)
年中散策自由

・御隅櫓
9:00~16:30

・秋田市立佐竹史料館
9:00~16:30

⑥定休日
・千秋公園(久保田城跡)
年中無休

・御隅櫓
12月1日~3月31日は休館

・秋田市立佐竹史料館
年末年始(12月29日~1月3日)は休館

⑦各料金
・千秋公園(久保田城跡)
無料

・御隅櫓
一般100円(20人以上の団体80円、高校生以下無料)

・秋田市立佐竹史料館
一般100円(20人以上の団体80円、高校生以下無料)

⑧アクセス
・JR秋田駅西口から徒歩10~15分
・秋田自動車道 秋田中央ICから車で20分

⑨駐車場
14台(有料)

⑩日本100名城スタンプ設置場所
・久保田城御隅櫓
・秋田市立佐竹史料館(秋田市千秋公園1-4)