内乱の一世紀、ついに終結
歴史作家、塩野七生による大長編『ローマ人の物語』(新潮文庫)全43巻を紹介していくこのコーナー。前巻では、ガイウス・ユリウス・カエサル(B.C.100~B.C.44)が元老院派の残党を一掃した後、終身独裁官に就任して国家改造に取り組むまでを描きました。
今回ご紹介する『ローマ人の物語(13)ユリウス・カエサル ルビコン以後(下)』(新潮文庫)では、カエサルの暗殺から、それに伴う内戦の再開、そしてその終息と帝政ローマの誕生までを取り上げます。
ポエニ戦争(B.C.264~B.C.146)終結直後のB.C.133年から100年間に渡って続いてきた「内乱の一世紀」もついに幕引きへと向かいます。怒涛のような歴史の流れをお楽しみください。
ローマ人の物語 (13) ユリウス・カエサル ルビコン以後(下) (新潮文庫)
- 作者: 塩野七生
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2004/09/29
- メディア: 文庫
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ブルータス、お前もか
終身独裁官に就任したカエサルは、次々と国家改造政策を断行。これによって共和政は事実上終わりを告げ、帝政への道が切り拓かれました。しかし、カエサルに対しては反発も大きく、B.C.44年3月15日、彼は元老院議場内で暗殺されることとなるのです。
暗殺者として最も有名なのは、マルクス・ユニウス・ブルトゥス(B.C.85~B.C.42)でしょう。史実か否かの議論はさておき、死に際のカエサルから「ブルータス、お前もか」という言葉を向けられた相手です。
また彼は、B.C.509年に専横を極める王とその一族を追放して共和政を創始し、初代執政官(コンスル)となった伝説的存在ルキウス・ユニウス・ブルトゥス(?~B.C.509)の末裔でもあります。
ちなみに、ブルータスはラテン語Brutus(ブルトゥス)の英語読み。シェイクスピアの戯曲『ジュリアス・シーザー』の登場人物として知られることから、英語での読み方で有名になりました。そもそも、ジュリアス・シーザーもJulius Caesar(ユリウス・カエサル)の英語読みですね。 そして、カエサル暗殺の実質的な首謀者と言えるのが、ガイウス・カシウス・ロンギヌス(B.C.87頃~B.C.42)です。彼は軍人として優れた才能を示し、ユリウス・カエサル、グナエウス・ポンペイウス(B.C.106~B.C.48)と共に第1回三頭政治を行ったマルクス・リキニウス・クラッスス(B.C.115~B.C.53)のパルティア遠征で名を挙げました。
B.C.53年、クラッスス率いるローマ軍がカルラエの戦いで大敗した際には、何とか逃亡して数少ない生存者の1人となり、余勢を駆って攻め寄せるパルティア軍からローマ領のシリア属州を守り抜きます。
その後、B.C.49年にカエサルがルビコン川を越えて共和政ローマに反旗を翻すと、カシウスはポンペイウス陣営につきましたが、元老院派はあえなく敗北。ただ、可能な限り政敵の抹殺を避けたカエサルによって許され、彼が統治するローマで一政治家として過ごすこととなりました。
カシウスは実務能力に長け、カエサルの暗殺を立案しましたが、自身が旗頭となるのでは人が集まらないと考えました。そこで精神的支柱としては、前述の通り共和政創始者の末裔という象徴的存在であり、清廉な人柄でも知られたマルクス・ブルトゥスを立てることにしたのです。
生粋のカエサル派も暗殺に加わる
カエサル暗殺を実行した人々は、内戦においてカエサルに敵対していながら、許されて公職に戻っていた元「反カエサル派」ばかりではありませんでした。犯人の中には、カエサルの幕僚として彼と共に戦ってきた「カエサル派」の面々もいたのです。
マルクス・ユニウス・ブルトゥスとは従兄弟にあたるデキムス・ユニウス・ブルトゥス(B.C.85頃~B.C.43)も、そうした生粋のカエサル派でした。彼はガリア戦役の時代からカエサルに従い、内戦においてもカエサル陣営で戦い抜いた人物です。
カエサルが生前に作っておいた遺言状でも、デキムス・ブルトゥスは第二相続人とされており、カエサルが厚い信頼を寄せていたことがうかがえます。この遺言状の内容を知ったデキムス・ブルトゥスは顔面蒼白になり、暗殺をひどく後悔したそうです。こうした背景から、カエサルの放った「ブルータス、お前もか」はこのデキムスの方に向けられていたとする説もあります。
反カエサル派だけならばまだしも、なぜカエサルの子飼いとも言うべき人々までが暗殺に加わったのでしょうか。それは、自分たちの描いていたローマ国家の理想像と、カエサルが打ち立てようとした新秩序の間に齟齬を見出したからです。
カエサルの下で戦ってきた人々も、内戦の終結と秩序の回復を望んでいたことは確かです。しかし、彼らの大部分はあくまで、「共和政」という固定観念の檻から抜け出すことはできませんでした。そしてそれは、横暴な権力者によって苦い思いをさせられた王政の歴史や、B.C.509年から450年間に渡って続いてきた共和政の伝統を考えれば、無理もないことだったでしょう。
一方カエサルは、権力の一点集中による統治の効率化と強化を目指していました。彼は「人間ならば誰にでも、現実の全てが見えるわけではない。多くの人は、見たいと欲する現実しか見ていない」との言葉を残しています。
「現実の全てが見えていた」カエサルは、元老院による少数指導体制の機能不全を見抜き、今や地中海世界全体を包括することとなったローマに「帝政」という新秩序を確立しようとしました。しかし、「見たいと欲する現実しか見ていない」多くの人は、どうしても「今まで通りの秩序を守ってこそ国家は安泰である」と思い込んでしまっていたのです。
アントニウスとオクタヴィアヌス
さて、暗殺者たちはカエサルによる独裁を阻止することで共和政への回帰を促そうとしたわけですが、民衆の支持を得られずに孤立します。そんな中、頭角を現してきた2人の人物がいました。
1人はマルクス・アントニウス(B.C.83~B.C.30)。ガリア戦役から元老院派との内戦に至るまでカエサル配下の武将として活躍し、その軍才を認められた男です。カエサルが独裁官に就任すると、その右腕とも言うべき騎兵長官となり、カエサル暗殺当時は共和政ローマ最高の官職である執政官でした。彼が存在感を発揮したのは当然とも言えます。
そしてもう1人がオクタヴィアヌス(B.C.63~14)。後にローマ帝国の初代皇帝となる人物ですが、カエサルが暗殺された時点ではわずか18歳の若者でした。無名の青年に過ぎなかった彼がいきなり歴史の表舞台に登場した理由は、カエサルの遺言の中で、後継者に指名されていたためです。
先にも少し触れたように、カエサルは暗殺される以前から遺言を書いていたので、予定としては自分があと10~20年帝政の基盤を固め、オクタヴィアヌスが30代となって力を付けてきたら、徐々に権力を委譲していこうと考えていたのかもしれません。ただ、カエサルは志半ばで殺されてしまったため、オクタヴィアヌスは18歳にしてローマ政界に1人で立たねばならなくなったのです。
第2回三頭政治でカエサル派再合流
この状況下では、実力的にアントニウスの1人勝ちとなるのが確実なようにも思えますが、オクタヴィアヌスがカエサルの遺言で後継者に指名されたという事実は、とてつもなく重いものでした。それに加え、彼は巧みな人心掌握術で旧カエサル派の面々、民衆、そして元老院までも味方に付け、10代にして元老院議員、そして執政官となったのです。
アントニウスは、勢力を拡大するオクタヴィアヌスに警戒感を強め、様々な策を弄して彼の失脚を図りますが、見事に看破されます。ただし、オクタヴィアヌスとしても、アントニウスと決戦を行うには機が熟していないことを知っていました。
こうした中で両雄は一度停戦。彼らにマルクス・アエミリウス・レピドゥス(B.C.90~B.C.13)を加えた3人により、第2回三頭政治が実現します。オクタヴィアヌスもアントニウスも、カエサル派であることには変わりありません。そこでまずは、各地に散ったカエサルの暗殺者たちを、手を携えて討とうというわけでした。
キケロも大粛清の前に斃れる
この際の元老院派に対する粛清で、マルクス・トゥッリウス・キケロ(B.C.106~B.C.43)も命を落とします。彼はカエサルと並び称される文筆家であり、実際お互いに才能を認め合う仲でした。しかし、政治的には生粋の共和主義者としてカエサルとたびたび対立。カエサル暗殺に際しては、これを全面的に支持しました。
オクタヴィアヌスは、アントニウスと対立していた時期にキケロから応援されたこともあり、彼の殺害には躊躇したようですが、アントニウスは自身の弾劾演説を行ったキケロを恨んでおり、容赦の無い粛清が行われることとなったのです。
もっとも、キケロをここまで追い込む原因を作ったのはオクタヴィアヌスでした。カエサルの暗殺に関わった者たちの公職追放を決める法案を実質的に提出したのは彼なのです。またオクタヴィアヌスは、アントニウスを討ってくれるというキケロの期待を裏切り、彼と手を結んだばかりか、元老院主導の共和政を完全に否定する第2回三頭政治まで主導しました。
キケロは、未だ20歳にもならないオクタヴィアヌスの力を過小評価していた節があります。また、カエサルの後継者になる野心を隠しきれないアントニウスと比べ、自身のことを「父」とまで呼んでくれるオクタヴィアヌスには、カエサルの描いた帝政への志を継ごうなどという大望は無く、危険性は極めて低いと判断していたのでした。
しかしむしろ、オクタヴィアヌスほどカエサルの意志を継ぐ決意に燃えていた男はいませんでした。何しろ、カエサル本人から後継者に指名されたわけですからね。この「後の初代皇帝」は、40歳も年上で政界の重鎮であるキケロのことを「父」と呼んで慕い、油断させて利用しておきながら、最終的には冷酷に葬り去るくらいの偽善と人心掌握の術を、若くして持ち合わせていたのです。
フィリッピの戦いで反カエサル派を殲滅
こうして元老院派の人々を亡き者にしていったオクタヴィアヌスとアントニウスが最後に戦うべきは、カエサル暗殺の最大の首謀者であったマルクス・ブルトゥスとカシウス・ロンギヌスでした。
両陣営の軍勢はギリシア北部のフィリッピにて激突。オクタヴィアヌスはブルトゥス、アントニウスはカシウスと対峙しました。この戦いで大活躍したのはアントニウス。流石にカエサルの下で経験を積んできただけあり、軍事的才能ならば同じく恵まれていたカシウスの軍を撃破します。
一方、元々病弱であったオクタヴィアヌスは現地で病に倒れ、軍の指揮どころではありませんでした。さらにブルトゥス軍からの急襲を受けて甚大な損害を被ります。そもそも、戦争が大の苦手であった彼は、軍事的な案件を全て、親友で腹心のマルクス・ウィプサニウス・アグリッパ(B.C.63~B.C.12)に任せていました。
いずれにせよ、フィリッピの戦いはオクタヴィアヌスとアントニウス陣営の勝利に終わりました。ただ、こうしてカエサルの暗殺者たちを殲滅した両者の対決は、もはや避けられないものとなったのです。ローマが領有していた地中海世界の東西をそれぞれの支配基盤とし、水面下で政争を繰り広げていた2人は、ついに決戦の時を迎えます。
カエサルなくしてオクタヴィアヌスなし
B.C.31年、オクタヴィアヌスは、プトレマイオス朝エジプトの女王クレオパトラ7世(B.C.69~B.C.30)と結んだアントニウスと、ギリシア沖のアクティウムにて最後の戦いに臨みました。この海戦に勝利した彼は、アントニウスとクレオパトラを自害に追い込みます。カエサル、アントニウスと、ローマの権力者たちを虜にしてきたクレオパトラの美貌も、冷徹なるオクタヴィアヌスの前では全く効力を発揮しませんでした。
ここに、グラックス兄弟の改革に端を発し、100年に渡って続いてきた「内乱の一世紀」は終結。わずか33歳にして、地中海世界の全てを統べるローマ唯一の絶対権力者となったオクタヴィアヌスは、カエサルの意志を継いで帝政ローマを創始し、初代皇帝の座に就きます。
歴史の流れを見るに「カエサルなくしてオクタヴィアヌスなし」と言っても過言ではありません。オクタヴィアヌスが天下を取れた秘訣として、カエサルの名を継いだ影響を考えないわけにはいきませんし、そもそも実際に武力で元老院体制を打倒したのはカエサルです。
したがって、やはり帝政ローマの事実上の創始者はカエサルなのだと改めて痛感せざるを得ません。「カエサル」の名がカイザー(ドイツ語で皇帝の意)やツァーリ(ロシアにおける最高権力者の称号)の語源となったのも頷けます。
ただ、カエサルの作った道を踏み外さずにしっかり歩んできたという点で、オクタヴィアヌスが世界史上第一級の人物であることは間違いありません。次巻からはオクタヴィアヌス改め、初代皇帝アウグストゥス(尊厳者)の治世をつぶさに見ていきましょう。
「見たいと欲する現実しか見ていない」人々に対して、「見たくない現実」を突き付けたために暗殺されてしまった現実主義者のカエサルと異なり、偽善を知るアウグストゥスは、人々が「見たいと欲する現実」をあえて見せ続けることで、泰平の世を築いていきます。
(次巻へつづく)