ローマ人の物語(15)/アウグストゥスによる「パクス・ロマーナ」

帝政ローマは軌道に乗るのか

 歴史作家、塩野七生による大長編『ローマ人の物語』(新潮文庫)全43巻を紹介していくこのコーナー。前巻では、ローマ帝国初代皇帝の座に就いたオクタヴィアヌス改めアウグストゥス(B.C.63~14)の治世前期(B.C.29~B.C.19)が描かれました。

 わずか33歳にして地中海世界を統べるローマ唯一の絶対権力者に上り詰めた彼は、形式的には共和政という枠組みを残し、元老院を巧妙に懐柔しながら、実質的には帝政となる政体を創始します。

 今回ご紹介する『ローマ人の物語(15)パクス・ロマーナ(中)』(新潮文庫)では、アウグストゥスの治世中期(B.C.18~B.C.6)が描かれます。

ローマ人の物語 (15) パクス・ロマーナ(中) (新潮文庫)

ローマ人の物語 (15) パクス・ロマーナ(中) (新潮文庫)

深謀遠慮の政略が光る

 B.C.753年の建国以来、ローマは戦いに明け暮れる日々を送ってきました。周辺に住む他部族との抗争に始まり、イタリア半島を統一してからも対外戦争は続きます。その中でも最大のものが、北アフリカを地盤としたカルタゴとのポエニ戦争(B.C.264~B.C.146)でした。

 そして、それが終結するや、今度は「内乱の一世紀」(B.C.133~B.C.27)に突入。これに終止符を打ち、ローマに安寧と秩序をもたらしたのがアウグストゥスです。

 したがって、ポエニ戦争の英雄であるスキピオ・アフリカヌス(B.C.236~B.C.183頃)、ガリア遠征やローマ内戦などで活躍したガイウス・ユリウス・カエサル(B.C.100~B.C.44)が主役であったこれまでの巻とは打って変わり、『ローマ人の物語(14~16)パクス・ロマーナ(上・中・下)』では華々しい戦いはほとんど描かれません。

 なにせ、タイトルが「パクス・ロマーナ(ローマの平和)」ですからね。主にアウグストゥスによる帝国統治の実態に力点が置かれています。彼の行った通貨、軍制、選挙制などの改革、属州統治の方法、宗教政策、少子化対策などを細かく見るにつけ、その沈着冷静で深謀遠慮を重んじる人柄が浮き出てくるようでした。

初代皇帝を支えた2人の腹心

 アウグストゥスが政策を実行していく上で腹心となったのが、マルクス・ウィプサニウス・アグリッパ(B.C.63~B.C.12)ガイウス・キルニウス・マエケナス(B.C.70~B.C.8)です。

 アグリッパはアウグストゥスと同年の生まれで、お互いに「親友」と呼び合う仲でした。アウグストゥスに軍事的才能が欠如していることを見抜いた養父カエサルは、この若き後継者の右腕となるよう、少年時代のアグリッパを登用。それ以来、彼は常にアウグストゥスの傍らにあり、軍事を担当してきました。

 カエサルの暗殺に加わり、彼から「ブルータス、お前もか」との言葉を向けられたことで有名なマルクス・ユニウス・ブルトゥス(B.C.85~B.C.42)とアウグストゥス(当時オクタヴィアヌス)がギリシア北部のフィリッピで戦った際も、現地で病に倒れて寝込んでいた総大将に替わって軍の指揮を執ったのはアグリッパです。

 また、アウグストゥスがマルクス・アントニウス(B.C.83~B.C.30)とプトレマイオス朝エジプトの女王クレオパトラ7世(B.C.69~B.C.30)の連合軍を打ち破り、「内乱の一世紀」に終止符を打つこととなったアクティウムの海戦でも、事実上の最高司令官はアグリッパでした。

 そんな彼は、自身を見出してくれたカエサルと、その後継者であり親友でもあるアウグストゥスに対して、生涯忠誠を誓いました。最終的にはアウグストゥスの娘と結婚し、皇族に名を連ねることとなりましたが、その真面目で質実剛健な性格は変わりませんでした。

 軍事だけでなく、インフラ整備にも力を尽くし、フランス南部にあるガール水道橋をはじめとする多くの建造物を建てるよう命じたのも彼の功績です。

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アウグストゥスの右腕アグリッパ

 一方、マエケナスは外交や政治を担当しました。カエサルの死去により、18歳という若さでローマ政界の中心に引っ張り出されたアウグストゥス(当時オクタヴィアヌス)が、アントニウスに代表される数々の政敵と対等以上に渡り合うことができた陰には、彼の尽力があったのです。

 マエケナスは、文筆家や詩人といった文化人に対する援助を惜しみませんでした。現在、企業が文化・芸術活動を支援することを「メセナ」と言いますが、この言葉は彼の名前に由来しています。

 それにしても、天下を取る男の傍らには必ず功臣がいるものですね。400年間続く漢王朝を打ち立て、初代皇帝となった劉邦(B.C.256~B.C.195)にも、軍事を支えた韓信(?~B.C.196)、智謀の士である張良(?~B.C.186)、行政手腕を発揮した蕭何(?~B.C.193)がおりました。「才能ある者を集める才能」こそ、リーダーの条件なのかもしれません。

国境をライン川からエルベ川へ

 さて、アウグストゥスが皇帝として行った数少ない戦争の中でも特筆すべきが、ゲルマニア(現ドイツ中部)への侵攻です。これが単なる帝国主義的な領土拡大であったならば「さもありなん」というところですが、ここには彼らしい国家防衛のための合理的戦略がありました。

 ローマはこれまで、河川や山脈といった自然の要害を国境線(=防衛線)として利用してきました。そしてアウグストゥスは、北の防衛線を従来の「ライン川~ドナウ川線」から「エルベ川~ドナウ川線」へ移そうと考えたのです。

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 元々ライン川がローマの国境となったのは、カエサルがガリア(現フランス)を平定し、その東を流れる彼の川を国境線に策定したからです。ガリアへの遠征は、しばしばアルプス山脈を越えてローマ領を犯すガリア諸部族への対抗策という以上に、国家ローマの未来を考えた大局的な政略でした。

 ちなみに、今回の文脈からは逸れますが、ガリア遠征はカエサルがローマを帝政に導くために必要と考えた「個人的軍事力」を持つための布石ともなっています。この天才的英雄は、何か1つの事を為す際、必ず複数の目的を達成していたそうで、これはその顕著な事例でしょう。

 これら、カエサルによるガリア遠征については、下記の記事を参照ください。

防衛線短縮による軍事費削減を意図

 天才的な戦略家、政略家であったカエサルの定めた国境線を、アウグストゥスはなぜ変えようとしたのか。そこには「軍事費を削減したい」との思惑がありました。

 前述の通り、それまでのローマは、ライン川とドナウ川を結ぶ線を防衛線としていました。しかしアウグストゥスは、ローマ領に食い込む形で大きく蛇行して流れるライン川より、比較的直線に流れているエルベ川の方が、国境とした際に守りやすいと考えたのです。

 また、ライン川よりもさらに東側を流れるエルベ川の方が、中欧を横断して黒海へと注ぐドナウ川との物理的な距離も近かったため、実際に「エルベ川~ドナウ川線」は「ライン川~ドナウ川線」と比べて、500kmも国境線が短縮される試算でした。

 国境線(=防衛線)が短くなるということはすなわち、その分の軍団を置かなくて済むことを意味します。それは軍団の人件費、食費、必要物資の購入費や輸送費といった様々な経費の削減に繋がりますから、アウグストゥスは「浮いた分の軍事費を社会保障やインフラ整備といった別の政策に回せる」と踏んだのです。

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ゲルマニアの「ローマ化」が不可欠

 しかし、国境をライン川からエルベ川へと移すためには当然、ゲルマン民族の住む、深い森に覆われたゲルマニアの地を軍事的・政治的・文化的に征服せねばなりません。カエサルがガリアをわずか8年で隅々まで平定し、ライン川を国境と定めたように、ゲルマニアの完全な「ローマ化」が必要となるのです。

 単に軍事的に制圧しただけでは、いつ反乱を起こされ、背後を襲われるか分かりません。ゲルマニアの諸部族を心から心服させ、道路や水道といったインフラ整備など「ローマ化」によるメリットを理解・享受してもらって、初めて「平定」と言えます。

 そのための戦争には莫大な予算が必要となりますが、アウグストゥスとしては、そうした「初期投資」を行うことにより、帝国が将来に渡って払い続けることになる防衛のための「維持費」を下げようとしたわけです。

 言わば、購入価格としては割高なLED電球を買うことで、日々の電気代を安くするのと、本質的には同じ発想ですね。

 ただ、政略においてはカエサルにも引けを取らなかったアウグストゥスといえど、あらゆる施策で成功を収められるほど、世の中は甘くなかったのでした。

次巻へつづく)