城郭の博物館、鳥取城/豊臣秀吉による地獄の兵糧攻めで有名

鳥取砂丘だけが観光スポットではない

 鳥取県と言えば、まず鳥取砂丘を思い浮かべる方が多いかと思いますが、歴史スポットとして欠かせないのが鳥取城です。戦国時代中期に築城されて以来、幾度となく戦乱の舞台となった同城には、歴史とロマンが詰まっています。

 今回は、公益財団法人日本城郭協会が選定した「日本100名城」にも指定されている鳥取城の歴史と魅力を紹介していきます。城へのアクセスや営業時間、「日本100名城」スタンプ設置場所など、基本情報のみ知りたい方は、最後の「まとめ」に記載しておきましたので、そちらをどうぞ!f:id:eichan99418:20191119230904j:plain

山名宗全の系譜を継ぐ者たち

 鳥取城は戦国時代中期、天文年間(1532~1555年)の築城とされています。築城者にも諸説あり、当初は因幡守護の山名誠通(?~1548)と言われていましたが、近年ではむしろ、山名誠通ら因幡山名氏と対立する山名祐豊(1511~1580)ら但馬山名氏が建てたものとする説が有力なようです。

 容易に想像できることですが、因幡山名氏も但馬山名氏も元々は同じ山名氏の系譜を継いでいます。山名氏と言えば、「戦国時代の始まり」とされる応仁の乱(1467~1478)で西軍の総大将を務めた山名宗全(1404~1473)が有名ですね。

 敵対関係にあった山名誠通と山名祐豊も、共に山名宗全の玄孫(孫の孫)に当たります。しかし、兄弟や親子同士で殺し合うことなど、戦国の世では珍しくありませんでしたから、遠縁ともなれば争わない理由にはなりませんでした。

目まぐるしく城主が交代

 ただ、両山名氏が内紛を起こしている間に情勢は刻々と変化していきました。

 まずは、因幡山名氏の家臣であった武田高信(1529~1573)が、主君である山名豊数(?~1564頃)を追い落として下克上に成功。鳥取城を拠点とします。彼は、毛利元就(1497~1571)以来、中国地方で台頭してきた毛利氏と結びました。

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中国地方の雄、毛利元就

 すると今度は、裏切られた山名豊数の弟である山名豊国(1548~1626)が、毛利氏とは仇敵の関係にあった尼子氏の再興を目指す山中幸盛(山中鹿之介、1545~1578)と組み、武田高信を倒します。

 こうして因幡山名氏の本拠となった鳥取城。しかしここに、毛利氏の家臣吉川元春(1530~1586)が攻め寄せました。山名豊国は降伏して毛利の軍門に降ります。

 この後、鳥取城は再び尼子氏再興軍によって降伏の憂き目に遭いましたが、最終的には毛利氏が同城を傘下に収め、今や毛利氏の家臣となった山名豊国が城主に就いたのです。

 鳥取城を治めた勢力の変遷をまとめると、因幡山名氏→武田氏→因幡山名氏→毛利氏→尼子氏→毛利氏と、短期間で目まぐるしく城主が交代していったことが分かります。

日本史上稀に見る人肉食まで発生

 中国地方の勢力図が大きく塗り替わる中、近畿では織田信長(1534~1582)が天下に覇を唱えるべく進撃を続けていました。そして1580年、ついに織田家臣であった羽柴秀吉(豊臣秀吉、1537~1598)が鳥取城を攻囲します。

 この時、毛利家臣として城を守っていたのは前述の山名豊国。彼は3カ月間の籠城戦の末、織田方に降伏しました。しかし、またしても毛利勢が鳥取城を攻め落とし、毛利氏重臣の吉川経家(1547~1581)が城主となります。

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豊臣秀吉による兵糧攻めは苛酷を極めた

 事ここに至り、羽柴秀吉は本腰を入れて鳥取城の攻略を行うこととなりました。この稀代の戦略家が採ったのは兵糧攻め。彼は、毛利領からの兵站を切断するのはもちろん、周辺の米を高値で買い占め、更には近隣に住む農民を城に追い込みます。

 鳥取城内には元々1400人の兵が籠っていましたが、そこに2000人の農民が加わり、蓄えてあった兵糧はみるみるうちに消えていきました。それでも毛利勢は4カ月に渡って耐え抜きましたが、餓死者が続出。当初は城内の家畜や草などを食べて凌いだようですが、それも尽きると親や兄弟の肉を食らったそうです…。

 終いには同胞が織田方の攻撃を受けて傷を負うと、これを寄ってたかって殺してまで食べるという地獄のような光景が繰り広げられました。日本史上稀に見る人肉食まで引き起こされる惨状に、流石の吉川経家も降伏を決意。城兵の命と引き換えに、自害して果てました。

ユニークな巻石垣「天球丸」

 こうして鳥取城は、織田信長による山陰攻略の拠点となりました。彼が本能寺の変で斃れ、豊臣秀吉の天下となってからは、しばらく安寧の日々が続きましたが、関ヶ原の戦いで西軍に組したため、徳川家康(1543~1616)を総大将とする東軍側に攻められて開城します。

 江戸時代に入ってからも藩主は二転三転しますが、最後は徳川家康の玄孫を母に持つ池田光仲(1630~1693)が因幡鳥取藩の初代藩主に就きました。そして、彼の子孫が12代に渡り、明治維新まで鳥取城下を治めていくこととなります。

 戦国時代、数多の戦いの舞台となった鳥取城は、江戸時代になってからも適宜整備が続けられました。様々な時代の建築法を垣間見ることができるため、同城は「城郭の博物館」と呼ばれています。

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巻石垣「天球丸」

 中でも見逃せないのは、1800年代初頭の補強で作られたとされる巻石垣「天球丸」です。こちら、上の画像を見ていただければ分かる通り、ユニークな球体の石垣となっています。後ろに見える石垣のたわみを防ぐのが目的でした。

 球体の石垣に「天球丸」と名付けるのですから、江戸時代の人にもロマンがあると感心していましたが、実はこの名は天球院という人物が住んでいたことに由来しています。彼女は、江戸時代の最初期に鳥取城主であった池田長吉(1570~1614)の姉。何とも奇遇な名前ですね。

東郷平八郎命名の仁風閣

 鳥取城の敷地内にあり、天球丸と並んで見ておきたい史跡が仁風閣です。こちらは皇族の宿泊を目的として1907年5月に建てられた洋館で、国の重要文化財となる建造物を数多く手がけた片山東熊(1854~1917)が設計しました。

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重要文化財の仁風閣

 実際、1907年5月には当時の皇太子嘉仁親王(後の大正天皇、1879~1926)が行啓し、当館を宿泊施設として使用。「仁風閣」の館名は、親王に随行した元帥海軍大将の東郷平八郎(1848~1934)が名付けました。当然、この建物も国の重要文化財に指定されています。最近では、映画『るろうに剣心』のロケ地にもなりました。

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東郷平八郎直筆の書が今に残る

 ちなみに、同じ1900年代初頭、お隣の島根県にある松江城の敷地内にも、興雲閣という擬洋風建築のお洒落な迎賓館が建てられました。嘉仁親王は山陰行啓の際、こちらにも宿泊しています。

もちろん鳥取砂丘もオススメ

 ここまで鳥取城について紹介してきましたが、せっかく鳥取の地を踏んだのであれば、鳥取砂丘にも足を運んでみてください。あれだけ広大な砂の大地に埋もれる機会はそうそうありません。

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鳥取砂丘は観光客でにぎわう

 時期にもよるのでしょうが、ハイシーズンは要注意!同日に鳥取砂丘と鳥取城を両方観光するつもりならば、間違いなく先に鳥取砂丘へ行くことをオススメします。

 僕は2019年5月4日、ゴールデンウィークど真ん中で行ってしまったことも大きいとは思いますが、鳥取砂丘へと続く下道が数kmに渡って渋滞していました。このゴールデンウィークでは、1週間かけて中国地方を巡ったのですが、1番混んでいたのは間違いなく鳥取砂丘でした(ちなみに2番目は出雲大社)。やはり鳥取と言えば砂丘なようです。

鳥取城まとめ          

①築城者
但馬山名氏とする説が有力

②築城年
天文年間(1532~1555年)

③住所
〒680-0011 鳥取市東町2丁目

④電話番号
0857-26-3595(仁風閣)

⑤営業時間
・久松公園(鳥取城跡)
年中散策自由

・仁風閣
9:00~17:00(入館16:30まで)

⑥定休日
・久松公園(鳥取城跡)
年中無休

・仁風閣
毎週月曜日(祝日の場合はその翌日)、年末年始

⑦各料金
・久松公園(鳥取城跡)
無料

・仁風閣
一般150円(20人以上団体120円、小中高生無料)

⑧アクセス
・JR山陰本線鳥取駅から100円循環バスくる梨「緑コース」で7分、「仁風閣・県立博物館」下車すぐ
※土日祝のみ:ループ麒麟獅子バス「鳥取城跡」下車、徒歩5分

⑨駐車場
・鳥取県庁駐車場(土日祝開放):257台
・県庁北側緑地駐車場(土日祝開放):69台
・鳥取市役所駐車場(土日祝開放):112台
・市営片原駐車場(30分未満無料、以降1時間ごと100円、最大500円):136台

⑩日本100名城スタンプ設置場所
・仁風閣内