ローマ人の物語(16)/初代皇帝アウグストゥス、苦悩の晩年

アウグストゥス、老境に入る

 歴史作家、塩野七生による大長編『ローマ人の物語』(新潮文庫)全43巻を紹介していくこのコーナー。前巻では、ローマ帝国初代皇帝アウグストゥス(B.C.63~14)の治世中期(B.C.18~B.C.6)が描かれました。

 今回ご紹介する『ローマ人の物語(16)パクス・ロマーナ(下)』(新潮文庫)では、アウグストゥスの治世後期(B.C.5~14)を見ていきます。

 帝政の創始から定着に向けて様々な施策を打ち、「パクス・ロマーナ(ローマの平和)」の礎を築いたアウグストゥス。彼は老境に入ってからも、その頭脳の冴えを失うことはありませんでしたが、いくつかの問題に直面して苦悩することとなります。

ローマ人の物語 (16) パクス・ロマーナ(下) (新潮文庫)

ローマ人の物語 (16) パクス・ロマーナ(下) (新潮文庫)

ゲルマニアの地で大惨敗

 アウグストゥスが向き合わざるを得なくなった問題の一つは、ゲルマニア(現ドイツ中部)からの撤退でした。

 前回詳述したように、アウグストゥスは軍事費の削減を期して、ローマ帝国の国境線(=防衛線)を従来の「ライン川~ドナウ川線」から「エルベ川~ドナウ川線」へ移そうと考えました。

 そのためにゲルマニアへと攻め入り、一時はこの地を軍事的に制覇するまで至ったのですが、9年にトイトブルク森の戦いにて決定的な敗北を喫します。ローマ側は3個軍団が壊滅。兵力にして2万3000人が戦死しました。この報を聞いた71歳の老アウグストゥスは「我が軍団を返せ!」と悲痛な叫びを上げたと言います。

 こうしてローマは、ゲルマニアの領有を断念することとなりました。アウグストゥスによる「エルベ川~ドナウ川線」の防衛構想は、夢破れたのです。

現在の言語体系にも影響

 この結果、ローマ帝国の防衛線は「ライン川~ドナウ川線」と定まりました。これは、言語体系にもよく表れています。

 現在ヨーロッパで話されている言語を見ると、ローマの影響力が及んでいた地域は一目瞭然です。ローマ帝国の公用語であったラテン語を起源としているのは、イタリア語、スペイン語、フランス語。反対に、ローマの支配下に入らなかったドイツや北欧で話されている言葉は、ゲルマン語をルーツとしています。f:id:eichan99418:20191127224127j:plain

 ゲルマン民族に手痛い敗北を喫したローマですが、彼らと常時敵対していたわけではありません。ローマは防衛線としての国境を定めながらも、交易など人々の交流については制限しない国家でした。

 だからこそ、ローマにもゲルマニアに関する情報がもたらされ、古代ローマの誇る歴史家タキトゥス(55~120)は、ゲルマン民族について、1世紀当時の様々な情報を盛り込んだ民俗誌『ゲルマーニア』を記すことができたのです。

 本作はタキトゥス自身が直接ゲルマニアの地を踏んで書いた書物ではないため、信憑性が疑われる部分もあります。ただ、彼は故意に虚偽の内容を書こうとしたわけではありませんので、少なくとも当時、そうした情報が流通していたことは事実でしょう。

軍事的才能には欠けたアウグストゥス

 ローマ帝国の敗北には、様々な理由がありました。当時この帝国は、地中海世界を包括する唯一無二の国家として、言わば「敵無し」の状態でした。慎重なアウグストゥスと言えど、奢りがあったことは否めません。

 また、政治家としてだけでなく軍団の司令官としても天才的な才能を発揮し、戦場では先頭に立って駆け回ったガイウス・ユリウス・カエサル(B.C.100~B.C.44)と異なり、アウグストゥスは戦争の「現場」をあまり知りませんでした。そのため、帝国の地図だけを見て、机上の空論に走ってしまったのです。

 加えて、彼はB.C.12年の時点で腹心のマルクス・ウィプサニウス・アグリッパ(B.C.63~B.C.12)を亡くしていました。軍事的才能に恵まれ、実践経験も豊富であったアグリッパを失った影響は、確実に大きなものでした。

後継者問題で苦悩

 ただ、何よりもアウグストゥスを悲嘆に暮れさせたのは、アグリッパら腹心ばかりでなく、後継者と目していた血縁者を次々と亡くしたことでした。

 アウグストゥスは元々虚弱体質であったにもかかわらず、最終的には75歳まで長生きし、数多いるローマ皇帝の中で最大の在位期間を誇ることとなります。それとは裏腹に、彼が皇位を継がせようとした血縁者たちは、年老いた皇帝を残して先にこの世を去ってしまいました。

 良い意味で冷徹かつ合理的な政治家であったアウグストゥスでしたが、意外にも皇位を自身の血縁者に継がせることに関しては、かなりのこだわりがあったようです。

 右腕のアグリッパに嫁がせた実の娘ユリア(B.C.39~14)は、ガイウス・カエサル(B.C.20~4)、ルキウス・カエサル(B.C.17~2)、アグリッパ・ポストゥムス(B.C.12~14)という3人の男児に恵まれました。しかし、アウグストゥス直系の孫である彼らは、生没年を見ていただければ分かる通り、尽く夭折してしまいます。

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晩年は後継者問題で苦悩

あくまで血縁者にこだわるが…

 結局、アウグストゥスの後継者として第2代皇帝に就くこととなるのは、妻リヴィア(B.C.57~29)が前夫との間にもうけた連れ子であるティベリウス(B.C.42~37)です。

 彼は責任感、実務能力、軍事的才能を兼ね備えていましたが、アウグストゥスとは血が繋がっていませんでした。そのためアウグストゥスからは、あくまで自身の血縁者が皇帝として適齢に育つまでの「中継ぎ要員」とされました。

 とはいえ、実の娘ユリアの生んだアウグストゥス直系の血脈は途絶えてしまいました。そこで白羽の矢を立てられたのが、ゲルマニクス(B.C.15~19)です。この男は、ティベリウスの弟ドゥルースス(B.C.38~B.C.9)の息子に当たります。

 ティベリウス、ドゥルーススの兄弟は、いずれもアウグストゥスの妻リヴィアの連れ子ですから、アウグストゥスとの血縁関係はありません。しかしドゥルーススは、アウグストゥスの姪である小アントニア(B.C.36~37)と結婚していました。その間に生まれたのがゲルマニクスですから、彼には確かにアウグストゥスと同じ血が流れていたのです。

 残念ながらこのゲルマニクスも、アウグストゥスの死後わずか5年で早世することとなるのですが、その話はまた次回詳述することにしましょう。

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ゲルマニクスに白羽の矢が立ったが…

ローマ帝国「1000年」の範囲とは?

 大長編『ローマ人の物語』(新潮文庫)も、この14~16巻「パクス・ロマーナ(上・中・下)」を経て、本格的に帝政時代へと入ったわけですが、ここで1つの疑問が生まれました。

 古代ローマの歴史を引き合いに出す方は多くいます。皆さん一様に「1000年続いたローマ帝国から学んで…」のように言いますが、一体どこからどこまでの1000年を指しているのでしょうか。

 これまでご紹介してきた時代も含め、古代ローマの歴史をかなり大雑把に時系列で区分すると、以下のようになります。

B.C.753 都市国家ローマ建国
B.C.509 王政から共和政へ移行
B.C.272 イタリア半島統一
B.C.27 共和政から帝政へ移行
395 ローマ帝国東西分裂
476 西ローマ帝国滅亡
1453 東ローマ帝国滅亡

 僕は「ローマ帝国=帝政開始後のローマ」と解釈していたので、B.C.27年を起点とする1000年ではどこを終わりとしているのか分からず、その点が疑問でした。

 上記の時系列で、帝政開始後かつ約1000年の期間となるのは、ローマ帝国東西分裂(395)や西ローマ帝国滅亡(476)から東ローマ帝国滅亡(1453)にかけてですが、これでは東ローマ帝国のみを主眼としていることになり、皆さんが抱くイメージとズレる気がします。

「ローマ帝国」と意訳されたラテン語

 そこでよく調べると、僕はどうやら「ローマ帝国」の定義を誤認していたようです。なんでも「ローマ帝国」は、「厳密に言えば共和政時代も含む」とのことでした。

 と言うのも、「ローマ帝国」と訳されたラテン語「Imperium Romanum」のimperiumは元々「命令権(統治権)」を意味し、それが転じて「多民族・多人種・多宗教を内包しつつ大きな領域を統治する国家」という意味にも使われるようになったからです。

 したがって、紀元前に成立した都市国家ローマが広域国家へと飛躍していった共和政時代も、「Imperium Romanum」であることには変わりありません。「Imperium Romanum」が「ローマ帝国」と訳されてしまったため、何となく帝政以降を示す言葉として受け取っていましたが、本来この用語は皇帝の存在を前提とはしていなかったのです。

 これを踏まえてもう一度「ローマ帝国の1000年」を見てみると、皆さんが仰りたいのは、都市国家ローマの起源(B.C.753)、または共和政の開始(B.C.509)から西ローマ帝国滅亡(476)までと考えるのが妥当かと思われます。その後も東ローマ帝国はさらに1000年間存続するわけですが、西ローマ帝国の滅亡をもって古代ローマ帝国の終焉と捉える向きもありますからね。

 もちろん「1000年」を「とにかく長い年月」という意味でざっくりと使われている可能性も十分ありますし、それがどの範囲だろうが大勢に影響はありません。ただ、個人的には非常に興味をそそられる部分であり、これをきっかけに色々と調べてみて、良い勉強になりました。

 とにもかくにも、40年に及ぶ初代皇帝アウグストゥスの治世は終わりを迎えました。次巻からはティベリウス以下、帝政ローマ初期を彩った皇帝たちについて紹介します。

次巻へつづく)