ローマ人の物語(17)/第2代皇帝ティベリウス、帝国の基礎を固める

アウグストゥスの後継者たち

 歴史作家、塩野七生による大長編『ローマ人の物語』(新潮文庫)全43巻を紹介していくこのコーナー。前巻では、ローマ帝国初代皇帝アウグストゥス(B.C.63~14)の治世後期(B.C.5~14)が描かれました。

 帝政の創始から定着に向けて様々な施策を打ち、「パクス・ロマーナ(ローマの平和)」の礎を築いたアウグストゥスでしたが、晩年はゲルマニア制覇の失敗と後継者問題に苦悩し、不安の種を抱えたまま死を迎えます。

 さて、今回から4回に渡って紹介する『ローマ人の物語(17~20)悪名高き皇帝たち(一、二、三、四)』では、ローマ帝国初代皇帝アウグストゥスの跡を継いだ第2~5代までの皇帝たちが描かれます。

 タイトルの通り、それぞれ欠点のある皇帝たちであったのは確かですが、彼らの施策が何もかも愚策であったかと言うと、そうでもありません。

 ただ、第2代皇帝ティベリウス(B.C.42~37)を除けば、ろくな死に方をしていないのもまた事実。第3代カリグラ(12~41)は近衛軍団により暗殺、第4代クラウディウス(B.C.10~54)は妻により毒殺、第5代ネロ(37~68)は元老院から「国家の敵」と断罪された末に自殺、という具合です。

 それぞれの皇帝は、なぜ悪帝と呼ばれることになってしまったのか。そして、その真偽はいかほどか。今回からしばらく、彼らの事績に触れていきます。

中継ぎ皇帝ティベリウス

 まず『ローマ人の物語(17)悪名高き皇帝たち(一)』(新潮文庫)で語られるのは、第2代皇帝ティベリウスの治世前半(14~27)です。

ローマ人の物語 (17) 悪名高き皇帝たち(1) (新潮文庫)

ローマ人の物語 (17) 悪名高き皇帝たち(1) (新潮文庫)

  • 作者:塩野 七生
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2005/08/28
  • メディア: 文庫

 前回も述べた通り、ティベリウスは、アウグストゥスの妻リヴィア(B.C.57~29)が前夫との間にもうけた連れ子です。彼は皇帝として申し分の無い能力を持っていましたが、血筋を重視したアウグストゥスは、ティベリウスを言わば「中継ぎの皇帝」として扱いました。

 実の娘ユリアの生んだ直系の血脈が途絶える中、アウグストゥスが真の後継者として期待したのが、ゲルマニクス(B.C.15~19)です。この男は、ティベリウスの弟ドゥルースス(B.C.38~B.C.9)の息子に当たります。

 ティベリウス、ドゥルーススの兄弟は、いずれもアウグストゥスの妻リヴィアの連れ子ですから、アウグストゥスとの血縁関係はありません。しかしドゥルーススは、アウグストゥスの姪である小アントニア(B.C.36~37)と結婚していました。その間に生まれたのがゲルマニクスですから、彼には確かにアウグストゥスと同じ血が流れていたのです。

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皇位継承者と目されていたゲルマニクス

ローマ皇帝に流れるアントニウスの血

 たった今「アウグストゥスの姪である小アントニア」と書きましたが、彼女はなんと、アウグストゥスが姉オクタヴィア(B.C.64~B.C.12)と、かつての仇敵マルクス・アントニウス(B.C.83~B.C.30)を政略結婚させていた時期に生まれた娘です。

 したがって、ゲルマニクスはアウグストゥスの血縁者というだけでなく、あのアントニウスの直系の孫でもあるのです。そして最終的には、このゲルマニクスの息子カリグラ弟クラウディウスが、それぞれ第3代、第4代の皇帝となります。

 また、オクタヴィアとアントニウスの娘である大アントニア(B.C.39~25頃)の息子エノバルブス(B.C.17~41)と、ゲルマニクスの娘である小アグリッピーナ(15~59)の間に生まれた息子が、第5代皇帝となるネロです。端的に言えば、アントニウスの孫と曾孫が結婚して誕生したのがネロということになります。

 したがって、ローマ帝国の第3~5代の皇帝には、初代皇帝アウグストゥスの血よりもむしろ、彼が時に議場、時に戦場で苛烈な争いを繰り広げた政敵アントニウスの血の方が、濃いくらい入っていたということになります。これが初期のローマ皇室である「ユリウス=クラウディウス朝」家系図の興味深いところですね。

絶妙なゲルマニア撤退

 さて、話をゲルマニクスに戻しましょう。そもそも彼が「ゲルマニクス(ゲルマニアを征服せし者)」と呼ばれるようになったきっかけは、父ドゥルーススの代に遡ります。ゲルマン人との戦いで多大な功績を挙げたことから、元老院より「ゲルマニクス」の称号を贈られたドゥルーススは、自身の息子にこの名を受け継がせたのです。

 ただ、前々回、前回と述べた通り、アウグストゥスによるゲルマニアの平定と「エルベ川~ドナウ川線」の防衛構想は、夢破れました。この結果、ローマ帝国は北の国境を「ライン川~ドナウ川線」まで後退させる必要に迫られます。

 しかし、単にゲルマニアから撤退したのでは、大国ローマの面子が立ちません。周囲の国や民族から「あのローマが負けた!」と思われますからね。そこでティベリウスは、戦争に長けたゲルマニクスがゲルマン民族相手に大勝を収めたのを良い機会として、ゲルマニアからの事実上の撤退を実行したのでした。

アレクサンドロス3世との類似点

 国家運営の大局的見地からゲルマニア撤退を行ったティベリウスですが、勝利を重ねるゲルマニクスとしては納得が行きません。そんなやる気満々のゲルマニクスを、ティベリウスは大国パルティア(B.C.247~224)と対峙する東方戦線へ送り込みます。

 しかし、不幸なことに、ゲルマニクスはこの地で熱病に罹り、34年の短い生涯を終えました。暗殺説も囁かれていますが、現在はマラリアに侵されたとする説が有力です。

 ゲルマニクスは戦上手、若き英雄、大衆からの絶大な人気、東方遠征中の死去、しかも死因が熱病(おそらくマラリア)という具合に、古代ギリシアのアレクサンドロス3世(B.C.356~B.C.323)と共通項が多いため、よく比較されます。

 ただ、これは歴史にロマンを求める思考としては共感できますが、史学上では本質的な比較とは言えません。アレクサンドロス3世が巨大帝国を築いた張本人なのに対し、ゲルマニクスは既に完成した帝国の一将軍に過ぎませんからね。

緊縮財政で収支を健全化するも不人気に

「悪名高き皇帝たち」というタイトルからも分かる通り、ティベリウスは人気の無い皇帝でした。

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ティベリウスは帝国の基礎を固めた

 そもそも彼は、アウグストゥスによって「中継ぎ皇帝」として仕方無く据えられたという背景があります。また、帝国運営における戦略的な齟齬から、この義父とは折り合いが悪かったようです。

 実際、30代の頃には「引退」と称してロードス島に引き籠るなどしています。ただ、アウグストゥスの帝国統治を受け継ぐや、彼は政治も軍事も的確にやってのけました。

 ティベリウスが非難の対象となった原因の1つとして、緊縮財政が挙げられます。古今東西、財政の引き締めは政策として不人気なものです。

 しかし、ティベリウスはインフラの整備・メンテナンスを含む公共工事国境防衛など、都市部に住む市民からは見えなくとも、地味ながら必要不可欠な部分にはしっかり予算を割いていました。それを増税無しで賄うために、戦車競技大会といった派手な支出を減らしたに過ぎません。

 むしろ、これによって財政が盤石となり、ローマ帝国の基礎が築かれました。ティベリウスは大衆迎合的な政策に囚われず、真に国家のために必要なことを考え抜いて政治を行う皇帝だったのです。

 もう1つ、彼が大衆から反発を食らうこととなった大きな理由があるのですが、そちらについては次回、ティベリウスの治世後期からカリグラの治世までを描く中でご紹介しましょう。

次巻へつづく)