夏目漱石が芸術論を展開した小説『草枕』

国民的作家、夏目漱石の純文学

『吾輩は猫である』『坊っちゃん』『こゝろ』など、数々の名作で知られる明治・大正の文豪、夏目漱石(1867~1916)。1984~2004年にかけて1000円札の肖像となるなど、国民的作家と言って良いでしょう。f:id:eichan99418:20191223225241j:plain

 今回は、そんな彼が自らの芸術論をそのまま小説として展開した作品『草枕』を紹介します。

 舞台は日露戦争(1904~05年)戦時下の日本。主人公は30歳の洋画家です。絵の題材を探し、田舎の山中にある温泉宿に宿泊することとなった彼は、そこで様々な人々と交流しつつ、その中で自説(主に芸術論)を述べていきます。

 本作は、話の筋こそあるものの、抑揚の効いた物語を売りにしている小説ではありません。そうした意味で、かなり純文学の色彩が強い作品と言えます。では、『草枕』で表現されているものとは何なのでしょうか。

草枕 (岩波文庫)

草枕 (岩波文庫)

  • 作者:夏目 漱石
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2014/12/18
  • メディア: Kindle版

小説はどこから読んでも面白い

 この小説の中で重要となるのは、主人公が泊まる宿の主の娘、那美さんの存在です。

 前述の通り、『草枕』は波乱万丈のストーリー展開を楽しむ作品ではありませんから、主人公と那美さんは恋仲になるわけでもなく、お互いにそうした素振りすら見せません。それでも、彼女は事あるごとに登場しては、主人公との応酬を繰り広げるのです。

 本作の中でも特に有名とされるのは、主人公が那美さんに小説を読み聞かせる場面です。「小説は最初から筋を追って読まねば面白くない」と言う彼女に対し、主人公は「物語を辿りたければ初めから終わりまで読まねばならないが、小説とはどこから読んでも面白いものだ」と主張します。

 ここでは夏目漱石の「文学作品とは文章の芸術であり、その楽しみ方は物語の筋を追うだけでなく、文章そのものにある」という考えが現れています。ただし、そう主張している『草枕』自体は、純文学寄りとはいえ、ある程度の筋があることは否めません。

非人情を描く

 勧善懲悪や恋愛沙汰といった、いわゆるストーリー展開を楽しむ作品に否定的な主人公は、そうした作品を「人情」と呼び、反対に義理人情に煩わされない「非人情」の世界を描きたいと考えています。元々彼は東京で生活しながら、「人情」に振り回されることに嫌気が差して、田舎にやってきたのです。

 そんな主人公は那美さんに対して、好悪ではなく、「非人情で画になる」と感じます。「男のために自殺するなんてつまらない真似はしない」といった発言を含む諸々の言動が、主人公をして那美さんを「非人情」だと思わせたのです。

 卑近な例ですが、変にカッコつけている人よりも、自然な立ち振る舞いをする人の方がカッコ良く見えることってありますよね?可愛い子ぶっている人よりも、自然体な人の方がキュートに見えるのも同じです。

「カッコつける」「可愛い子ぶる」ということは、その目的が達せられるかは別として、「カッコ良く/可愛く見せるにはこうすれば良い」という「型」を知っていることに他なりません。

 しかし、『草枕』の那美さんはそうした型を知らない。にもかかわらず、その自然な立ち振る舞いがあまりに画になるため、画家である主人公は、かえって彼女に「画題」としての魅力を感じたのです。f:id:eichan99418:20191223225432j:plain

調和が崩れたところに美を見出す

 一方、主人公は那美さんに対して「何かが足りない」とも感じます。そして、その足りないものの正体は「憐れ」の表情だと結論づけるのです。

 ここで注意すべきは、主人公は「憐れ(=人情)」を描きたいのではないということ。中心に据えるのはあくまで「非人情」の世界ですが、そこに「憐み」という「人情」が現れた瞬間を描くことで、調和が崩れたところに美を見出しているのです。

 自然体では「非人情」の那美さんが、憐れの表情を浮かべた(=人情を起こした)時こそ、彼女を覆う「非人情」に綻びが生じた瞬間であり、それが画題になるのです。そして、その瞬間は小説の最後の最後に訪れることとなります。

日本的な美意識

 こうした「形式の中にある破綻」を美と捉える傾向は、日本的とも言えます。

 例えば、よく事例として取り上げられるのは、ヨーロッパと日本における庭の違いです。ヨーロッパでは、自然を「コントロールする対象」として捉えるため、庭園の木々は見事に刈り揃えられ、左右対称の造形物として仕立てられます。f:id:eichan99418:20191223225524j:plain

 一方日本では、名立たる寺社仏閣、城跡などに残る庭を見ても分かる通り、「いかに自然であるか」が重視されます。「左右対称」といった明らかに不自然な形よりも、自然の持つアンバランスさにこそ、美を見出しているわけです。

 生け花で、花を均等には並べず、あえて対称性を崩して生けるのも、その方がより自然界に近いからです。

 また、弟子に庭を掃除させた茶人が、庭から一切の落ち葉が無くなったのを見て、適当な木の幹を揺らし、あえて多少の葉を落としたという逸話もあります。これぞまさに「形式の中にある破綻」でしょう。f:id:eichan99418:20191223225556j:plain

 こうした日本的な美意識に通じる考え方を主人公が持っているのは、決して偶然ではありません。本作の様々な箇所で「近代vs前近代」「西洋vs東洋」といった二項対立について言及されていることからも、夏目漱石が文学によって日本の美意識を表現しようとしたのは間違いないでしょう。

夏目漱石の教養と発想力に脱帽

 この小説を読んで驚かされるのは、主人公の教養の深さです。古今東西の作家、詩人、画家、僧侶が、聞き慣れない名の人物も含めて当たり前のように登場し、文中には英文、漢詩、俳句などが散りばめられています。

 もちろん主人公は、ある程度は夏目漱石の投影ですから、流石に明治期の帝国大学(後の東京大学)出身のエリートだけあります。漱石は松山や熊本、そして東京帝国大学で教鞭を取ったほどの人物ですし、イギリス留学も経験していますので、頭脳明晰だったことでしょう。

 余談ですが、この『草枕』は1906年7月26日に執筆が開始され、8月9日には完成しています。その間、わずか2週間。しかも、大作『吾輩は猫である』を書き上げた10日後に書き始めた作品ですから、その湧き上がる発想力と執筆速度には脱帽せざるを得ません。

 本作では、「主人公が自らの芸術論を述べるエッセイ的な部分」「セリフの応酬が続く場面」「比喩などをふんだんに用いた細かな風景や自然描写」というように、様々な文体が混在しています。

 こうした一見まとまりが無いように思えるスタイルも、教養に溢れ、文章の型を一通り習得している夏目漱石だからこそ可能であった、文学的な挑戦の1つだったのではないかと推察します。