ローマ人の物語(18)/第3代皇帝カリグラの浪費と財政破綻

ティベリウスからカリグラへ

 歴史作家、塩野七生による大長編『ローマ人の物語』(新潮文庫)全43巻を紹介していくこのコーナー。前巻では、第2代皇帝ティベリウス(B.C.42~37)の治世前半(14~27)を描きました。

 ティベリウスは初代皇帝アウグストゥス(B.C.63~14)の妻リヴィア(B.C.57~29)が前夫との間にもうけた連れ子でした。そのため、血縁を重視したアウグストゥスからは、自身の血を引く者が皇帝に相応しい器量を備えるまでの「中継ぎの皇帝」として扱われました。

 それでもティベリウスは、自身に課された役割を果たすべく内政に従事。また、アウグストゥスが固執したゲルマニアの平定作戦にも巧妙に終止符を打ち、ローマ帝国の北の国境線を「ライン川~ドナウ川線」と定めました。

 さて、今回紹介する『ローマ人の物語(18)悪名高き皇帝たち(二)』(新潮文庫)では、そんなティベリウスの治世後期(27~37)から第3代皇帝カリグラ(12~41、在位37~41)の治世までが語られます。

ローマ人の物語 (18) 悪名高き皇帝たち(2) (新潮文庫)

ローマ人の物語 (18) 悪名高き皇帝たち(2) (新潮文庫)

  • 作者:塩野 七生
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2005/08/28
  • メディア: 文庫

引き籠り皇帝ティベリウス

 ティベリウスは真摯に国家運営に向き合い、最適解を模索して実行に移していきました。ただ、それが不人気を招くこともしばしばありました。前回、その最たる例として挙げたのが、徹底した緊縮財政です。

 そして、これと同様に彼を批判に晒した原因の1つが、首都不在でした。なんと、彼は治世最後の10年間、1度も首都ローマに戻ることなく、ナポリやポンペイに程近いカプリ島に引き籠って統治を行ったのです。

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ティベリウスが引き籠ったカプリ島

 これには様々な理由がありますが、ティベリウスが人間嫌いであったことが挙げられます。また、元々彼は元老院と共に手を携えて帝国の統治を行おうと考えていたのですが、その意思決定力の無さに失望したことも相まって、首都に身を置くのが嫌になってしまいました。

元老院と市民の軽視に批判殺到

 それでも、書簡を通して、皇帝が取り組むべき重要問題は尽く解決されていました。必要な情報が手に入り、迅速な命令伝達を容易にするシステムが構築されていれば、どこにいても帝国の統治が可能であったことは明白です。

 しかし、やはり国家の頂点に君臨する皇帝が首都不在のまま統治を行っている状態は、端から見れば「元老院や民衆の軽視」と映っても仕方ありませんでした。

 古代ローマはラテン語で「SPQR」と表されました。これは「Senatus Populusque Romanus」の略称で、意味は「ローマの元老院と市民たち」となります。ローマ帝国は皇帝による完全な独裁国家と思われがちですが、建前上の主権はあくまで元老院と市民にあったのです。

 皇帝とは彼らから政治や軍事を委ねられている存在であり、元老院や市民を無視するからには、それ相応の覚悟が必要でした。裏を返せば、それを考慮してもなお、ティベリウスは「自身が引き籠った方が国家のためになる」と考えたのです。

 余談ですが、ティベリウスの統治下で、後に全世界かつ現代にまで影響を及ぼすこととなる男が処刑されました。イエス・キリストです。彼の死がキリスト教の本格的な勃興へと繋がり、それが後のローマ帝国、そしてヨーロッパ世界に大きな影響を及ぼすことになりますので、ここで少しばかり言及しておくことに意味はあるでしょう。f:id:eichan99418:20191230135156j:plain

24歳の新生皇帝誕生

 不人気皇帝ティベリウスによって後継者に指名され、24歳7カ月で第3代皇帝に即位したのがカリグラです。彼の父は、アウグストゥスが真の後継者として期待を寄せていたゲルマニクス(B.C.15~19)。そのためカリグラの本名は、ガイウス・ユリウス・カエサル・ゲルマニクスと言います。

 ちなみにカリグラとは「小さな軍靴」の意。幼少期、父ゲルマニクスに連れられ、ゲルマニアの平定作戦に同行した際、可愛らしい軍装姿が兵士たちのマスコット的存在であったことから、この通称が一般的となりました。

 彼は、ティベリウスの庶民からの人気の無さを目の当たりにしてきたため、とにかく民衆から好かれる皇帝になりたいと思ったのか、大衆迎合的な人気取り政策に走ります。様々な税を廃止し、かつ狂気をはらむほどの財政出動を繰り返したのです。

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若くして皇帝となったカリグラ

統治期間わずか4年弱で暗殺

 カリグラが建設を命じたのは、神殿、劇場、競技場、水道、巨大な船など、挙げればキリがありません。彼の作った競技場は、現在のバチカン市国の領域に当たり、当時競技場の中央にそびえ立っていたオベリスクは、今でも現地で見ることが可能です。

 カリグラの構想がいかに突飛であったかを示す逸話として、5.4kmもある海上に徴用した舟を並べて繋げ、その上を凱旋したというものがあります。しかも、古代ギリシアの若き帝王アレクサンドロス3世(B.C.356~B.C.323)に扮していたというから、かなりの凝り方です。

 もちろん民衆からは大喝采を浴び、新皇帝の存在感と若さ、そしてローマ帝国の財力と権威を示すという目的は達せられました。しかし、こうした派手な施策が帝国の将来にもたらす効果は限定的でした。

 カリグラの即位当初、人々はティベリウス治世の緊縮財政から解放されて喜びましたが、国家財政を傾かせるほどの浪費に、彼の常識を疑うようになりました。また、その他の暴政も重ねた結果、カリグラは近衛軍団により暗殺されることとなります。28歳5カ月の死。統治期間はわずか3年10カ月でした。

 カリグラはティベリウスが緊縮財政で健全なものとした、ローマの国家財政を破綻させましたが、これでローマが政治的危機に陥ることはありませんでした。アウグストゥスが築き、ティベリウスが盤石にしたローマ帝国は、1人の皇帝の浪費程度では揺らがぬものとなっていたのです。

次巻へつづく)