ローマ人の物語(23)/五賢帝時代への架け橋となった皇帝兄弟

ウェスパシアヌスの跡を継いだ息子たち

 歴史作家、塩野七生による大長編『ローマ人の物語』(新潮文庫)全43巻を紹介していくこのコーナー。前巻では、第5代皇帝ネロ(37~68、在位54~68)の死後、内乱状態に陥っていたローマ帝国を再建し、国家を衰亡の危機から救った第9代皇帝ティトゥス・フラウィウス・ウェスパシアヌス(9~79、在位69~79)について取り上げました。

 ウェスパシアヌス亡き後、皇帝としてローマ帝国の統治を行ったのは、ティトゥス(39~81、在位79~81)ドミティアヌス(51~96、在位81~96)という2人の息子たちでした。今回ご紹介する『ローマ人の物語(23)危機と克服(下)』(新潮文庫)では、この兄弟の治世について見ていきます。

ローマ人の物語 (23) 危機と克服(下) (新潮文庫)

ローマ人の物語 (23) 危機と克服(下) (新潮文庫)

統治の実績を持っていたティトゥス

 ウェスパシアヌスが10年間の治世の後に逝去すると、長男のティトゥスが跡を継ぎました。彼は、軍人であった父に若い頃から付き従い、ゲルマニア(現ドイツ中部)、ブリタニア(現イギリス南部)、北アフリカといった各地の戦線を経験。ユダヤ戦争(66~73)においては、軍団の指揮を任されます。

 そして父が皇帝に就くと、共同統治者として、今度は政治の経験を積みながら、善政とは何かを学びました。f:id:eichan99418:20210510224024j:plain

 未だ30代ながら、既に皇帝としての経験と実績を持ち合わせていたティトゥス。ただ、彼には唯一「運」がありませんでした。

ヴェスヴィオ火山の噴火でポンペイ消滅

 ティトゥスが皇帝に即位した2カ月後、イタリア半島南部にあるヴェスヴィオ火山が大噴火しました。これにより、火山周辺の街や村は灰の下に埋没。災害による死者は、約2000人と言われます。

 この際に消滅した都市の中で最も有名なポンペイには、灰や土石流だけでなく、有毒ガスも押し寄せ、人々の命を奪いました。また一説では、当時ポンペイの気温は300℃にも達したとされています。体液が一瞬で蒸発したことにより、体の内側からの膨張に耐え切れず、頭蓋骨が破裂した遺体もありました。

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現在のヴェスヴィオ火山

 この災害で亡くなった人物の中で著名なのは、ガイウス・プリニウス・セクンドゥス(23~79、大プリニウス)でしょう。百科全書『博物誌』を著したことで歴史に名を残している彼は、ローマ帝国の属州総督を歴任するほどの政治家・軍人でした。

 ヴェスヴィオ火山の噴火当時、ローマ艦隊の司令長官を務めていた大プリニウスは、火山の麓にある街々の住民を救出するため、そして自ら進める地学研究の糧とするため、船を駆って現場へと急行。しかし有毒な火山ガスを吸ってしまい、その場で帰らぬ人となりました。

 このときの様子は、命からがら逃げ延びた人々によって、大プリニウスの甥であるガイウス・プリニウス・カエキリウス・セクンドゥス(61~113頃、小プリニウス)に伝えられました。そして小プリニウスが、同時代を生きた古代ローマ有数の歴史家タキトゥス(55~120)に向けた手紙の中で、この災害について記したことにより、私たちはわずかながら歴史を垣間見ることができるのです。

天変地異に翻弄され、短い治世を終える

 皇帝ティトゥスは、ヴェスヴィオ火山噴火の報を受けると、すぐに対策本部を設置し、自らも現地に乗り込んで、復興の陣頭指揮を執りました。しかし、そんなティトゥスを凶報が襲います。ヴェスヴィオ火山周辺の街々の再建が半ばというときに、今度は首都ローマで大火災が発生したのです。加えて、ローマでは疫病も流行。ティトゥスはそちらへの対策にも追われました。

 これらの仕事を終え、ようやく本格的な帝国統治に移れると考えた矢先、ティトゥスは病に倒れます。皇帝への即位以来、次々と降りかかる天変地異に悩まされたあげく、そのまま逝去。2年3カ月の短い治世でした。

20代で皇位に就いたドミティアヌス

 ティトゥスの死に伴い、皇帝の座に就いたのが、弟のドミティアヌスです。このとき彼は、30歳にも満たない若者でした。軍団での経験も皆無。皇帝就任までに政務と軍事の両面で実績を上げていた兄ティトゥスと異なり、経験不足と言われても仕方ありません。

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 本来であれば、ティトゥスがあと15~20年ほど帝国を統治し、その過程でドミティアヌスに実績を積ませた後、世代交代するのが理想だったことでしょう。これまで若くして皇帝になった第3代カリグラ(12~41、在位37~41)第5代ネロ(37~68、在位54~68)は、共に暴政を行ったことで有名です。人々が危ぶんだとしても無理はありません。

 しかし、そうした懸念に反し、皇帝となったドミティアヌスは、ローマ帝国にとって有益となる数多くの政策を実行に移していきました。

西洋版“万里の長城”を構築

 ドミティアヌスが行った施策の中でも特筆すべきは、ライン川とドナウ川の上流を結ぶ「リメス・ゲルマニクス(ゲルマニア防壁)」の構築です。

 当時のローマ帝国は、ライン川ドナウ川をゲルマン人に対する北の国境(=防衛線)としていました。ライン川沿いのケルン、ボン、マインツ、ストラスブール、ドナウ川沿いのウィーン、ブラチスラヴァ、ブダペスト、ベオグラードなどは、全て古代ローマ人が築いた防衛拠点が源流となっています。

 ボンは旧西ドイツ、ウィーンはオーストリア、ブラチスラヴァはスロバキア、ブダペストはハンガリー、ベオグラードはセルビア(旧ユーゴスラビア)の各首都ですから、ローマ帝国が現代にまで大きな影響を与えていることがうかがえます。その他、古代ローマに端を発する都市は数えきれません。

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ローマ帝国の防衛線

 天然の要害である大河を防壁とすることで領土を守っていたローマ帝国ですが、ライン川とドナウ川の各上流地域は防衛の空白地帯となっていました。ここに広がるのは、シュヴァルツヴァルト(黒い森)。その名の通り、昼間でも薄暗いほど鬱蒼とした森です。

 原野での会戦では無敵を誇ったローマ軍ですが、森林の中のゲリラ戦では何度も大敗を喫してきました。「森はゲルマンの母」と呼ばれていたほどですから、シュヴァルツヴァルトはゲルマン人がローマ帝国へと国境を侵犯する上で格好の地帯だったのです。

 そこでドミティアヌスは、この防衛の空白地帯に防壁を築くことで、防衛線を確固たるものにし、ゲルマン民族の侵入を抑えようとしました。言わば、西洋版“万里の長城”。「北方から攻め来る遊牧民族の侵入を防ぐために長城を築く」という発想は、中国のそれと全く同じですね。

手本としたのは第2代皇帝ティベリウス

 ドミティアヌスは、ローマ帝国の国境を強化しつつ、ドナウ川の北方から侵攻してきたダキア族を迎撃。「領土の防衛」という皇帝の責務を果たします。軍事以外にも、有用な公共事業を進めることでインフラを整備したり、教育を重視して有能な学者に教科書を作らせたり、役人の不正防止に努めたりしました。

 これらの政策を実現するにあたって、相応の出費を考えなければならなかったことと思いますが、ドミティアヌスは全治世を通じて健全財政を維持しました。父ウェスパシアヌスが税収増加への道筋をつけていたとはいえ、それをしっかり引き継いだ彼は優秀であったと言えるでしょう。

 ドミティアヌスは几帳面な性格で、皇帝の中では第2代ティベリウスを手本としていたようです。内向的な性格ながら、時には市民から非難を浴びるような政策でも信念をもって推し進め、皇帝としての仕事を滞りなく行うあたり、確かにティベリウスと似ています。

あからさまに元老院の弱体化を図る

 ただ、妥協を知らなかった彼は、次第に元老院と対立するようになります。初代皇帝アウグストゥス(B.C.63~14、在位B.C.29~14)の時代から、既に政治の実権は皇帝が握っていましたが、どの皇帝も建前上は、共和政時代から連綿と続いてきた組織である元老院を立ててきました。しかし、裏表のある言動を好まなかったドミティアヌスは、あからさまに元老院のさらなる弱体化を図り始めたのです。

 例えば、皇帝への助言機関とも言うべき内閣を整備し、元老院議員の枠を減らしました。また、元老院議員の議席を剥奪する権利を有する財務官に終身で就任。告発者にスパイ活動を行わせ、弱みを掴んだ政敵を排除したのです。

 元老院議員は一度就いてしまえば、生涯に渡って続けることができる職業でした。それをいつでも辞めさせられる権利を、ドミティアヌスは手中に収めたのです。元老院が警戒したのも当然でしょう。

悪帝として「記録抹殺刑」に処される

 この結果、ドミティアヌスは、元老院議員を含む複数の人々の画策により、暗殺されました。そればかりか、ドミティアヌスに関する記録を尽く消し去ることを命じる「ダムナティオ・メモリアエ(記録抹殺刑)」にまで処されたのです。

「悪帝」として断罪されたドミティアヌスでしたが、彼の政策の多くは、その後も受け継がれていきました。また、ドミティアヌスに関する文書、絵画、像などは葬り去るように命令が出ていたにも関わらず、彼の名を冠した競技場や街道は、そのままの名前で残りました。それは、ドミティアヌスが主導した公共事業が、民衆から支持されていたことを示しています。

 ドミティアヌスの死によって、再びローマ帝国は混迷の時代へと突入する可能性もありました。しかし結果的には、そうはなりませんでした。むしろローマ帝国は、その後100年間に渡って最盛期を謳歌することとなります。世に言う「五賢帝時代」の到来です。

次巻へつづく)