歴史と文化の街が誇る「足利学校」
栃木県南西部、群馬県との県境に位置する足利市。「足利」と言えば、季節ごとに様々な花を堪能できる「あしかがフラワーパーク」が有名です。歴史が好きな方は、室町幕府(1336~1573)の将軍家である足利氏が真っ先に思い浮かぶかもしれません。
今回は、そんな歴史と文化に彩られた街が誇る史跡「足利学校」について紹介します。基本情報のみ知りたい方は、最後の「まとめ」に記載しておきましたので、そちらをどうぞ!
世界に名を知られた最高学府
足利学校は「日本最古の学校」とされ、「近世日本の教育遺産群」として文化庁によって日本遺産にも認定されています。同様の範疇で遺産となっている史跡としては、茨城県水戸市の弘道館、岡山県備前市の閑谷学校、大分県日田市の咸宜園があります。
足利学校は、室町時代から戦国時代にかけて、日本の最高学府の1つと言っても過言ではありませんでした。ここで儒学、易学、兵学、医学などを学んだ多くの卒業生が、戦国大名に仕え、活躍したと言います。
戦国時代、本校は関東一円を勢力圏とした後北条氏の庇護を受けました。その第4代当主である北条氏政(1538~1590)の時代には、学生数は3000人に及んだそうです。
日本にキリスト教を伝えたことで有名なフランシスコ・ザビエル(1506~1552)も、書簡の中で足利学校について言及。「日本国中、最も大にして、最も有名な坂東(=関東)の大学」と世界に紹介しました。
教育機関から貴重な図書館へ
1590年に豊臣秀吉(1537~1598)が後北条氏を滅ぼすと、足利学校は後ろ盾を失います。その中で、古典籍に興味のあった豊臣秀次(1568~1595)により、蔵書が持ち去られかけるという事態も発生しました。
しかし、関東を新しく治めることとなった徳川家康(1543~1616)がこれを良しとせず、足利学校は蔵書とともに守られることになったのです。
こうして、江戸時代を迎えた後も、足利学校は教育機関として存続しました。ただ、本校が是としていた、戦国の乱世に通用する実践的な学問は、太平の世にはそぐわないものでした。江戸幕府が朱子学を奨励したこともあり、足利学校は教育機関ではなく、貴重な古典籍を抱える図書館として重要視されるに至ったのです。
足利学校を守り抜いた“喧嘩草雲”
1868年に明治維新を迎えると、足利学校はついに廃校となります。管理を担った栃木県は、その敷地の一部を小学校に転用し、蔵書の払い下げも行おうとしました。
この際、「このままでは貴重な蔵書が散逸してしまう」と危機感を募らせた地元の人々が尽力したことにより、足利学校の土地と蔵書は守られます。大正時代に入ると、本校は史跡に登録され、保存が図られることになりました。
この足利学校の保護活動に関わった中でも興味深いのが、旧足利藩士で画家の田崎草雲(1815~1898)です。あまり知名度は高くありませんが、歴史小説家の司馬遼太郎(1923~1996)が短編小説『喧嘩草雲』で描いており、これは短編集『馬上少年過ぐ』(新潮文庫)に収録されています。
田崎草雲は『喧嘩草雲』という小説のタイトル通り、自身の絵を批判する相手を殴りつけるほど喧嘩早い人物でした。日本人男性の平均身長が155cmだった幕末にあって、180cm近くもある巨漢で、画家ながら剣術や柔術といった武芸に通じていたそうです。
1854年、マシュー・ペリー(1794~1858)率いるアメリカ艦隊が日本に来航した際、田崎草雲は横浜でアメリカ海軍の水兵と喧嘩になりました。その際に彼は、ボクシングの構えでパンチを繰り出してきた相手を、柔術の投げ技で倒したと言います。ちなみにこれは、近代日本で行われた初の異種格闘技戦とのことです。
孔子への敬意が地名に残る
余談ながら、足利学校は足利市の昌平町という場所にあります。この「昌平」という地名は、儒学の始祖である孔子(B.C.551~B.C.479)の生地「昌平郷」にちなんだものです。
「昌平」の名を聞くと、江戸時代に武士の学校の最高峰とされた幕府直轄の教育機関「昌平坂学問所(昌平黌)」を思い起こす方もいるでしょう。当然、こちらの名前も同じく、孔子の生地に由来しています。
足利学校は教育機関としての役割を終えましたが、昌平坂学問所は、洋学を教えた開成所、西洋医学を学ぶための医学所と共に、現在の東京大学の源流となりました。
百人一首にも登場する“天才”小野篁
足利学校の創建については諸説あり、未だに議論が収束していません。したがって、実は「最古の学校」と呼べるのかについても決着がついていないのですが、今回はその点についてはあえて看過しましょう。
創立者として名が挙がっているのは、小野篁、足利義兼、上杉憲実といった人物です。
1人目の小野篁(802~853)は、平安時代初期の貴族。法律に関する深い見識があり、優れた実務能力を有していたと言います。加えて、漢詩、和歌、書道といった分野でも、その才能を遺憾なく発揮しました。
百人一首にも「わたの原 八十島かけて 漕ぎ出でぬと 人には告げよ 海人の釣舟」という句が選ばれています。現代語訳は「多くの島々に向け、大海原へと漕ぎ出してしまった。都の人にはそう告げてくれ、漁師の釣り船よ」といったところ。第52代天皇である嵯峨天皇(786~842、在位809~823)の逆鱗に触れ、隠岐に流された際に詠んだものです。
小野篁が隠岐に流されたのは、遣唐使の事業に批判的な漢詩を詠んだためでした。彼は遣唐使の使節団に選ばれたものの、2度渡航に失敗。3度目の渡海にあたって、破損した別の船の肩代わりをする形となったことに不服を唱え、乗船拒否をしたという経緯があります。
源頼朝の従兄弟が創立に関係?
2人目の足利義兼(1154~1199)は、足利宗家の第2代当主であり、室町幕府初代将軍となる足利尊氏(1305~1358)の7代前の先祖に当たります。足利氏の始祖である父、源義康(1127~1157、後の足利義康)は、平安時代後期に前九年の役・後三年の役で活躍した「八幡太郎」こと源義家(1039~1106)の孫ですので、由緒正しい武家の生まれと言えます。
鎌倉幕府(1192~1333)の初代将軍である源頼朝(1147~1199)は源義家の孫の孫。そればかりか、足利義兼の母と源頼朝の母は姉妹なので、義兼と頼朝は両親のどちらを辿っても親戚関係ということになります。
3人目の上杉憲実(1410~1466)は、15世紀に活躍した室町幕府の関東管領です。京都を本拠地とした室町幕府は、関東を治めるために「鎌倉府」を設置しました。その長官である鎌倉公方を補佐したのが、関東管領でした。
彼は、現在国宝に指定されている書籍を足利学校に寄進。また、鎌倉の円覚寺から僧侶の快元(?~1469)を招き、本校の初代庠主(=校長)としました。上杉憲実が足利学校に深く関わったことは間違いありませんが、「創立者」ではなく「中興の祖」と位置付けるのが通説のようです。
最古の武家の書庫「金沢文庫」も復興
上杉憲実は教育に関心を寄せていたとみえ、足利学校のほかに、武士が作った蔵書庫としては日本最古とされる金沢文庫も再興しました。同文庫は、横浜市金沢区や、京浜急行電鉄の金沢文庫駅にその名を残しています。
金沢文庫は鎌倉時代、執権として幕府の実権を握った北条一門の北条実時(1224~1276)が設立しました。北条実時は、2001年のNHK大河ドラマ『北条時宗』で描かれており、その際には池畑慎之介が演じています。
ちなみに北条実時は、鎌倉幕府第2代執権である北条義時(1163~1224)の孫。北条義時は2022年のNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』における主役であり、小栗旬が演じますので、これから知名度が上がりそうですね。
足利学校まとめ
①創立者
小野篁、足利義兼、上杉憲実など諸説あり
②創立年
840年頃、1190年頃、1432年など諸説あり
③住所
〒326-0813 栃木県足利市昌平町2338番地
④電話番号
0284-41-2655(史跡足利学校事務所)
⑤営業時間
4~9月:9:00~16:30
10~3月:9:00~16:00
⑥定休日
第3水曜日(11月のみ第2水曜日)
年末(12月29日~12月31日)
⑦各料金
一般:420円/高校生:220円/中学生以下:無料
⑧アクセス
・JR両毛線 足利駅から徒歩10分
・東武伊勢崎線 足利市駅から徒歩15分
・北関東自動車道 足利ICから車で15分
・足利市生活路線バス
行道線、名草線「足利学校東」「通一丁目」下車
中央循環線「足利学校東」下車
富田線「通一丁目」下車
⑨駐車場
・史跡足利学校多目的駐車場
利用時間:8:30~17:15
駐車台数:乗用車8台
料金:無料
・太平記館 観光駐車場
利用時間:9:00~17:00
駐車台数:乗用車40台、大型バス10台
料金:無料
・たかうじ君広場・駐車場
利用時間:終日開放
駐車台数:乗用車35台(うち、軽自動車11台)
料金:無料
・通二丁目多目的広場
利用時間:終日開放(ただし、1回の駐車時間は3時間まで)
駐車台数:乗用車39台
料金:無料