ローマ人の物語(24)/帝国最大版図を実現!五賢帝トラヤヌス(上)

“中継ぎ”の老皇帝ネルヴァ

 歴史作家、塩野七生による大長編『ローマ人の物語』(新潮文庫)全43巻を紹介していくこのコーナー。前巻では、ティトゥス(39~81、在位79~81)、ドミティアヌス(51~96、在位81~96)の兄弟皇帝による統治を描きました。 後世にまで受け継がれる政策を立案し、実行に移したドミティアヌスでしたが、元老院とあからさまに対立したことにより暗殺されてしまいます。彼の死によって、混沌の時代に逆戻りしかねない状況となったローマ帝国。しかし、その心配は杞憂に終わりました。

 事態を収拾したのが、1人目の「五賢帝」ネルヴァ(30頃~98、在位96~98)です。彼は元老院からの推挙で皇帝に就任。ローマ帝国における重要な勢力であった軍団からも「静観」という形での消極的支持を受けました。

 元老院がネルヴァを推した理由はいくつかあります。まずは、彼が共和政時代から続く由緒正しい元老院貴族の家系で、かつ温厚な人柄であったためです。前任者のドミティアヌスと異なり、元老院の弱体化を図る動機がないと判断されました。

 そして、政治的に中立であったため、ドミティアヌスの信奉者・反対者の双方から敵対される恐れがなかったことが挙げられます。ドミティアヌスは民衆や軍団から高い評価を受けていたので、そうした点を考慮せざるを得なかったのです。

 また、ネルヴァは既に60代を迎えていて健康状態に難があり、妻も子もいなかったことから、皇位を世襲できる状況にはありませんでした。そのため元老院からは、次期皇帝として真に相応しい人物を探すまでの都合の良い“中継ぎ”とみなされたわけです。

 結果的に、この選択は正解でした。軍団からの圧力を受けたこともあり、ネルヴァは後継者に、能力・実績ともに申し分なかったトラヤヌス(53~117、在位98~117)を指名します。この人物が2人目の「五賢帝」として、帝政ローマの黄金時代を築くことになるのです。

「至高の皇帝」トラヤヌスの治世を描く

 世界史を勉強した方は、トラヤヌスを「ローマ帝国史上最大の版図を実現した皇帝」として記憶されていることでしょう。また彼は、ローマ帝国初となる、イタリア本国ではない属州出身の皇帝としても有名です。  

 最終的には元老院より「至高の皇帝」との称号を送られるトラヤヌスの治世を描いたのが、『ローマ人の物語(24)賢帝の世紀(上)』(新潮文庫)です。本書では、トラヤヌスが皇帝となった経緯から、その外征・内政についてつぶさに語られます。

地方都市の一青年から皇帝へ

 トラヤヌスは南ヒスパニア(現在のスペイン南部)の植民市イタリカに、元老院議員マルクス・トラヤヌス(30~?)の子として生まれました。古代ローマの元老院議員は、政治だけでなく軍事のリーダーでもあったため、トラヤヌスも青年期より軍団に所属し、過酷な環境の中で研鑽を積みます。

 こうした「修行」を経たのち、トラヤヌスは会計検査官、軍団の大隊長、法務官、属州総督兼司令官といった具合に出世コースを歩みました。この経歴の中で、元老院議員にも就きます。意外に思われるかもしれませんが、元老院議員の座は世襲ではなく、あくまで実力で勝ち取るしかありませんでした。

 そんな折、ライン川の国境地帯を守る軍団が、当時の皇帝ドミティアヌスに反旗を翻します。この鎮圧に駆けつけたトラヤヌスは、ドミティアヌスの知遇を得ることとなり、2年後には執政官に就任。そしてローマ帝国の防衛上、重要な戦略拠点である高地ゲルマニア属州(現在のライン川中流域)の総督兼司令官に抜擢されたのです。

 しかし、帝国防衛の任務を忠実に果たしていたトラヤヌスのもとに、ドミティアヌス暗殺の報がもたらされます。そして先述の通り、“中継ぎ”の皇帝となったネルヴァによって、後継者に指名されたのです。背景には軍団からの支持もありました。

全長1km超の橋を大河ドナウに架ける

 ネルヴァの死によって、名実ともに皇帝となったトラヤヌス。ここからは、その治世を見ていきましょう。

 トラヤヌスと言えば、ローマ帝国の領域を最大にした皇帝ですから、戦争のイメージが強いかもしれません。 実際、300ページ近い本作のうち、90~179ページがダキア戦役、262~289ページがパルティア戦役に割かれています。文章が書かれているのは実質270ページほどですので、全体の半分近くは戦争の描写です。

 ただ、実はトラヤヌスの事績について記された史料はあまり残っていません。そのため本書でも、ダキア戦役の様子は、現在もローマに建っている「トラヤヌスの記念柱」に描かれたリレーフを解説する形で語られます。

 戦役の詳細については本書を読んでいただければと思いますが、特筆すべきは、進軍にあたってトラヤヌスがドナウ川の下流に架けさせた通称「トラヤヌス橋」です。馬や荷車でも難なく渡れるよう、河岸まで延びる街道との高低差が生じないように工夫して作られており、全長はなんと1135mに及びます。

 日本がまだ弥生時代であった2世紀初頭に、1km以上もの長さのアーチ橋を架けることのできたローマ帝国の技術力の高さには舌を巻かざるを得ません。しかも彼らはこれを、1年あまりという短期間で建築しました。

 この橋は、当時流通していた硬貨にも描かれています。新聞やテレビといったマスメディアがなかった時代、硬貨が「ローマ帝国の技術力の高さ」を内外に知らしめる宣伝媒体となったのです。ちなみに、本を読まず、演説を聴かない人間でも必ず手にする硬貨を、言わば「広告」として活用することを思い付いたのは、あのガイウス・ユリウス・カエサル(B.C.100~B.C.44)でした。

 この戦役によってローマ帝国の属州とされたダキア(現在のルーマニア)。長らく帝国の勢力下に置かれることとなった同地域にはラテン語が浸透したため、その系譜を継ぐルーマニア語は、イタリア語、スペイン語、フランス語などと並んでラテン語系に属しています。

 さて、次回はトラヤヌスの内政施策を紹介するほか、史料的価値の高いガイウス・プリニウス・カエキリウス・セクンドゥス(61~113頃、小プリニウス)との往復書簡についても見ていきます。

次回へつづく)