ローマ人の物語(25)/五賢帝ハドリアヌス、治世を帝国全土の行脚に捧ぐ

 歴史作家、塩野七生による大長編『ローマ人の物語』(新潮文庫)全43巻を紹介していくこのコーナー。前巻では、ローマ帝国の最大版図を実現し、元老院より「至高の皇帝」との称号を贈られた「五賢帝」トラヤヌス(53~117、在位98~117)について見ていきました。

 今回紹介する『ローマ人の物語(25)賢帝の世紀(中)』(新潮文庫)では、トラヤヌスの跡を継いでローマ帝国による統治を揺るぎないものとした3人目の「五賢帝」ハドリアヌス(76~138、在位117~138)の治世が描かれます。

若くして皇帝の座を見据える

 ハドリアヌスの出身地はトラヤヌスと同じ、南ヒスパニア(現在のスペイン南部)の植民市イタリカです。実は、ハドリアヌスの父であるハドリアヌス・アフェル(生没年不詳)とトラヤヌスは従兄弟同士。若くして亡くなったハドリアヌス・アフェルは死に際し、息子の後見を皇帝に就く前のトラヤヌスに託しました。

 こうした事情から、ハドリアヌスにとってトラヤヌスは父のような存在でした。ハドリアヌスが大人になっていく過程で、代父トラヤヌスは出世を重ね、ついには皇帝へと登り詰めることになります。ちなみに、トラヤヌスの滞在先であったライン川流域の都市ケルンまでひた走り、「前皇帝ネルヴァの死」と「トラヤヌスの皇帝就任」の報を伝えたのは、当時22歳の若きハドリアヌスであったと言います。

 このように、若い時分より「皇帝の身近な存在」となったハドリアヌス。皇位が転がり込んでくるなどとは思いも寄らずに属州総督を務めていたトラヤヌスと異なり、早くから自身が将来的に皇帝となることを意識したとしてもおかしくはありません。

 ただ、代父トラヤヌスは何よりも公正を重んじる人間でした。次期皇帝の候補として推されたければ、実力を磨き、実績で示すしかありません。ハドリアヌスはトラヤヌス同様、会計検査官、法務官、属州総督兼司令官、執政官と着実に出世コースを辿ります。また、この間に行われたダキア戦役では軍事の才能も見せ、見事に功績を上げました。

 そして始まったパルティア王国(B.C.247~224)との戦い。ハドリアヌスはシリア属州の総督として、州都アンティオキアからローマ軍の後方支援を担当しました。華々しい戦闘にこそ参加できませんでしたが、古くより「ローマ軍は兵站で勝つ」と言われており、その最も重要な部分を任されたわけです。

 しかし、トラヤヌスは戦役の途中で崩御。後継者に指名されたハドリアヌスが、次期皇帝として即位することになりました。

先帝の重臣4人を容赦なく暗殺

 ハドリアヌスの統治は、波乱で幕を開けました。「故トラヤヌスが重用していた4人の家臣が、ハドリアヌスの皇帝就任を望まず、反逆を企てている」との報がもたらされたのです。ハドリアヌスはこれに「対処」することを指示。結果として重臣たちは全員、闇討ちのような形で殺されます

 この重臣たちは、元老院議員でもありました。たとえ証拠があったにせよ、裁判を受けることも許さず、いきなり殺害に及ぶというのは、元老院からすれば暴挙でしかありません。「皇帝にとって気に食わない行動を起こせば、自分たちも殺されるのではないか」という不安と恐怖が元老院議員たちの中に広がりました。

 ただ、ここでハドリアヌスは弁明します。自分は「対処せよ」とは指示したものの、「殺害せよ」とまでは命じていないというわけです。そして、「今後このような“不祥事”は絶対に起こさない」とも誓いました。

 この皇帝を描いた小説としては最も有名であろう『ハドリアヌス帝の回想』の中で、著者のマルグリット・ユルスナール(1903~1987)は「何らかの誤解が生じた」という解釈を採用しています。

 真偽のほどは定かではありませんが、いずれにしても、この事件でハドリアヌスの有力な政敵がいなくなったのは事実です。

 警戒を強める元老院に対し、ハドリアヌスは元老院会議に必ず出席し、精勤する姿勢を見せることで懐柔に務めます。また、税制改革や社会福祉の充実によって民衆からの支持も得ることに成功。こうして「後方の憂い」を断ったハドリアヌスは、満を持して帝国全土への視察旅行を開始しました。

帝国全土を飛び回り防衛体制を再構築

 前皇帝のトラヤヌスによって、ローマ帝国の領域は史上最大となりました。現在の地名で言えば、北はイギリス、南はアフリカ北岸、東はイラン、西はポルトガルまでを手中に収めたのです。

 ただ、これだけ広大な領土を防衛するためには、相応の費用がかかります。ハドリアヌスは自ら帝国全土をくまなく視察することで、安全保障体制の健全化および効率化を図ろうとしました。

 ハドリアヌスが帝位に就いていたのは117年8月~138年7月の約21年間。彼はそのうち121~125年(4年半)、126年(半年)、128~134年(6年)の合計11年間を巡行に費やします。つまり治世の半分以上の期間、ハドリアヌスは首都ローマを不在にしていたわけです。

 それでも一般的な行政が滞りなく回っていたという事実は、初代皇帝アウグストゥス(B.C.63~14、在位B.C.27~14)以来連綿と続くローマ帝国の統治機構が盤石であったことを如実に表しています。

 治世前半で行った視察においてハドリアヌスが訪れたのは、ライン川流域、ブリタニア(現イギリス)、ヒスパニア(現スペイン)、シリア、ドナウ川流域、ギリシア、北アフリカ。これらの地域で、主に防衛体制の再構築を手掛けました。

現代の境界線にも影響を与える“長城”

 ハドリアヌスの業績としておそらく最も有名なのは、ブリタニアにおける通称「ハドリアヌスの長城」の建設でしょう。現在は風化してしまい、石の壁が連なっているだけですが、往時には土塁や塹壕が巡らされ、軍団が移動しやすいようにローマ街道まで整備された一大軍事施設でした。

 最終的には、この「ハドリアヌスの長城」を境界に、北側が非ローマ、南側がローマ帝国として定着。南北で長らく別の文化圏が醸成されたこともあり、現在もこの境界線の付近でイングランドとスコットランドは分かれています

 歴史にifはありませんが、もしローマ帝国があと少し北部まで支配していたら、グラスゴーやエディンバラといった街もイングランドの圏内となっていたでしょう。前田大然、古橋亨梧、旗手怜央、井手口陽介ら日本人選手が所属し、2021~2022シーズンのスコティッシュ・プレミアシップで優勝を果たしたセルティックFC(グラスゴーが本拠地)も、プレミアリーグのクラブだったかもしれませんね。

歴史的大事件の舞台となる街を建設

 ハドリアヌスが現代に残した痕跡としては、ガリア(現フランス)に建てたアヴェーニオ(現アヴィニョン)の街も挙げられます。ガリアは共和政末期にガイウス・ユリウス・カエサル(B.C.100~B.C.44)が平定し、「ローマ化の優等生」と言われていた地域でしたので、ハドリアヌスの仕事はほとんどありませんでしたが、この街を建設したことだけは記録に残っているようです。

 アヴィニョンは1309~1377年にかけて、キリスト教の教皇庁がローマから移されたことで知られています。歴史上、「アヴィニョン捕囚(教皇のバビロン捕囚)」と呼ばれているこの事件では、フランス国王がローマ教皇を支配下に置き、教皇権力の衰退と王権の拡大が顕著となりました。これが後の絶対王政へと繋がっていきます。

 ちなみに、パブロ・ピカソ(1881~1973)の作品として名高い「アヴィニョンの娘たち」は、スペイン第2の都市バルセロナのアヴィニョン通りにある娼館を描いたものですので、この街とは関係ありません。

 そのほか、ハドリアヌスが行った施策の中でも興味深いのは、「ヌメルス」という言わばパートタイムの兵士を募集し、見張りを始めとする「訓練を要さない任務」に就かせたことです。これによって資金のかかる常設の軍団数を減らしつつ、防衛力の維持を実現しました。またこの施策には、失業者対策という副次的効果もありました。

唯一現在まで遺る古代ローマの建造物

 1度目の長期視察から首都ローマに帰還したハドリアヌスは、1年半ほど腰を落ち着けて内政に専念します。取り組んだ事業の1つが、『ローマ法大全』の編纂。時代に適合していない法を廃止し、必要な法を制定する地道な作業です。

 世界史を学んだ方は、『ローマ法大全』と聞くと、東ローマ帝国の皇帝ユスティニアヌス1世(483~565、在位527~565)を思い浮かべることでしょう。しかし、彼の編纂した『ローマ法大全』の中にも、ハドリアヌスが集大成した際の法令や判例が豊富に掲載されているそうです。

東ローマ帝国皇帝・ユスティニアヌス1世

 また、古代ローマ時代のまま現代に遺る唯一の建造物とされるパンテオンも、ハドリアヌスが建てたものです。元々は初代皇帝アウグストゥスの右腕であったマルクス・ウィプサニウス・アグリッパ(B.C.63~B.C.12)が建造したのですが、火災に遭って修復不能となり、ハドリアヌスが一から建て直しました。ローマを訪れる機会があれば、必ず見ておきたい史跡の1つですね。

パンテオンの内部

 さて次巻では、ハドリアヌスの治世後期から、4人目の「五賢帝」アントニヌス・ピウス(86~161、在位138~161)の時代までが描かれます。

次巻へつづく)