ローマ人の物語(26)/空前絶後の平和到来!五賢帝アントニヌス・ピウス

 歴史作家、塩野七生による大長編『ローマ人の物語』(新潮文庫)全43巻を紹介していくこのコーナー。前巻では、3人目の「五賢帝」ハドリアヌス(76~138、在位117~138)の治世前半が描かれました。

 今回紹介する『ローマ人の物語(26)賢帝の世紀(下)』(新潮文庫)では、ハドリアヌスの治世後半および4人目の「五賢帝」アントニヌス・ピウス(86~161、在位138~161)の時代について見ていきます。

ユダヤ教徒への挑発的政策を断行

 ハドリアヌス治世後期で特筆すべき出来事は、131年に勃発したユダヤ教徒の反乱でしょう。引き金となったのは、ハドリアヌスが行った2つの政策です。

 まずは、アエリア・カピトリーナと称する街の建設。この街は、ユダヤ教の聖地であるイェルサレムのすぐ北に、軍団の基地を中心として建てられました。言わば、「ユダヤ教徒が何か騒動を起こしたら、直ちに駆けつけて制圧する」という無言の圧力です。

 この街がユダヤ教徒の反ローマ感情に火を点けた理由は、それだけではありません。アエリア・カピトリーナという名前のうち「アエリア」は、ハドリアヌスの家門名「アエリウス」から来ていますので、「ハドリアヌスの街」くらいの意味合いですが、問題は「カピトリーナ」の方にありました。

 カピトリーナとは、首都ローマの街を構成している7つの丘のうちの1つ。古来ローマの人々が崇めてきた神々を祭った神殿のみが建っている神聖な丘です。つまりハドリアヌスは、一神教であるユダヤ教の聖地イェルサレムの目と鼻の先に、多神教を象徴する街を建てたことになります。

 しかも、その地に元々あったシナゴーグ(ユダヤ教の会堂)を破壊して、ローマにおける最高神ユピテルを祭った神殿まで作ったと言いますから、ユダヤ教徒から「喧嘩を売っている」と思われても仕方ないでしょう。

 ハドリアヌスはこれに加え、ユダヤ教徒に対して、彼らにとっては神聖な意味を持つ「割礼」を禁止しました。そればかりか、犯罪者に割礼を強制することで、この行為を冒涜すらしたのです。ユダヤ教徒の信仰心が深く傷付けられたのは、言うまでもありません。

“民族離散”が1800年続くきっかけに

 ハドリアヌスによる(おそらく故意の)“挑発”に乗ったユダヤ教徒の反乱は、2年ほどで鎮圧されました。聖都イェルサレムは陥落。ユダヤ人たちが立て籠もっていた要塞もことごとく破壊され、命を落としたユダヤ人の数は50万人にも上ったそうです。

 この後、ハドリアヌスはユダヤ教徒に対して、イェルサレムでの居住を禁止しました。この追放令により、紀元前8世紀の「アッシリア捕囚」や紀元前6世紀の「バビロン捕囚」以来、久方ぶりにユダヤ人のディアスポラ(離散)が起こります。そしてこの離散状態は、1948年にイスラエルが建国されるまで1800年間も続くことになるのです。こう考えると、131年に起こったユダヤ教徒の反乱が、いかに大きな歴史的転換点であったか分かります。

 余談ですが、イェルサレムの街の再建は、ハドリアヌス自身の手で行われることとなりました。現在のイェルサレム市街の下地を築いたのが、ユダヤ教徒にとって憎き敵であるハドリアヌスという事実は、皮肉と言わざるを得ません。

 もっとも、この反乱に加わってローマ帝国と戦ったのは、ユダヤ教徒の中でも特に過激化した人々でした。彼らは、穏健なユダヤ教徒にまで敵意を向けます。

 また、割礼を止め、頭から水をかぶる「洗礼」に変えていたキリスト教徒も、反乱したユダヤ教徒から弾圧の対象とされました。ユダヤ教徒からすれば、キリスト教徒がイエス・キリストを唯一の救世主(メシア)とみなしていることも気に入らなかったようです。この出来事を境に、ユダヤ教徒とキリスト教徒の対立は決定的となり、現在に至ります。

政教一致の国家建設こそユダヤ人の悲願

 古代ローマは共和政・帝政を通じて基本的に同化政策を採っており、他の民族に対して寛容な国家でした。元々は敵対していた地域からも元老院議員を輩出させ、国家の統治に関わらせていますし、後半で紹介するアントニヌス・ピウスの曽祖父は、ローマ人からすれば歴とした異民族に当たるガリア人でした。

 この事実から、同じ「帝国」という名を冠していても、ローマ帝国と大日本帝国や大英帝国では様相が大きく異なっていたことが分かります。少なくとも、韓国人や台湾人が大日本帝国の首相に就いたことはありませんし、インド人が大英帝国を率いたという話も聞きません。

 では、それほど寛容であったにも関わらず、なぜローマ帝国はユダヤ教徒と頻繁に争っていたのか。それは、ローマ人とユダヤ人の「自由」に対する考え方が根本的に異なっていたからです。

 ローマ人はユダヤ教徒に対して、公職や兵役に就くことを免除しました。ユダヤ教徒が「公職や兵役への従事は皇帝に忠誠を誓うことであり、神のみに仕えるべき自分たちには断じてできない」と拒否したからです。そればかりか、土曜や日曜を安息日として休むことも認めました。

 ローマ帝国内に生きる他の全ての人間が果たしている義務を免除されながら、皆と同等の権利を主張したユダヤ人に対する大衆からの反感は少なくありませんでした。しかし、それでもローマ帝国はユダヤ人の言い分を受け入れたのです。そして、ユダヤ教徒には十分すぎるほど「自由」を与えていると判断しました。

 ただ、ユダヤ教徒にとっては、「神の教えに沿った政教一致の国家の建設」こそが「自由」なのです。その点で、ローマは不寛容でした。自分たちが広げてきた領土ですから、当然と言えば当然ですが、ユダヤ教徒による独立国家の建設は認めず、直接統治を選択したのです。これが、常に対立の火種がくすぶり続けていた理由です。

平和すぎて記録が残らなかった

 いずれにせよ、ユダヤ教徒による反乱の“処理”を終えたハドリアヌスに残されていたのは、後継者を誰にするかという問題でした。

 彼は元々、のちに5人目の「五賢帝」となるマルクス・アウレリウス・アントニヌス(121~180、在位161~180)に注目していたようですが、まだ少年ということもあり、「中継ぎ」の皇帝を立てることにします。紆余曲折の末に選ばれたのが、アントニヌス・ピウスでした。

 実は、アントニヌス・ピウスの治世についてはほとんど記録が残っていません。大規模な公共建築の造営や対外戦争など、特筆すべきことを何一つとして行わなかったからです。

 ただそれは、トラヤヌスやハドリアヌスといった前任者が帝国を安寧に保つための施策を十分に行ってきたため、大事業に取り組む必要がなかったとも言えました。彼が統治した23年間は、歴史家たちですら何も書くことができないほど平和だったのです。

 もちろん、いくら前任者が有能でも、何の努力もなしに巨大帝国の平和と安全を20年以上に渡って維持できるはずがありません。

 アントニヌス・ピウスは皇帝として、国境地帯の様子に気を配ったり、ローマ街道や水道をはじめとする社会インフラの補修に努めたりといった記録に残らない“地味な”仕事をしっかり行っていたのでしょう。彼は軍歴こそ皆無でしたが、秩序ある社会を堅実に維持していくのには最も適した皇帝であったと言えます。

 ちなみに、アントニヌス・ピウスの「ピウス」は「慈悲深い」という意味です。これは、元老院から嫌われていたハドリアヌスの神格化を、涙ながらに訴えたという出来事に由来します。

 老いのために気が短くなっていた晩年のハドリアヌスは、相次いで元老院議員を告発したため、元老院から厳しい目を向けられていました。彼の死後、アントニヌス・ピウスは「皇帝就任に際しての恩赦」という形で、これらの告発を全て白紙に戻します。

 その際、決してハドリアヌスの行いを否定して自身の善政を強調するようなことはせず、「前帝が生きていれば、きっと同じことをしたに違いない」と述べました。ハドリアヌスの名誉を傷付けないこの言い方一つで、アントニヌス・ピウスの人格や器の大きさが分かります。

 アントニヌス・ピウスは天寿を全うし、74歳で逝去。その死に際しては、帝国中の誰もが哀悼の意を表したと言います。こうして帝位は、最後の「五賢帝」にして『自省録』の著者としても名高い「哲人皇帝」マルクス・アウレリウス・アントニヌスへと引き継がれることとなるのです。