現代まで踏襲された旧日本軍の悪弊
日々働いていると、誰もが勤め先で、次のような事象を目の当たりにした経験があるのではないでしょうか。
・合理性よりも私情を優先した意思決定がなされる
・曖昧な推測や感覚に基づいて判断が行われる
・上司に都合の良いことばかり言う人間が出世する
・報連相がないまま、勝手に物事が進められている
・論理性を欠いても、声が大きい人間の意見が通る
・目的を意識せず、惰性でこなしている仕事がある
・昔のやり方に固執して、変化を嫌う職場だ
・部署間で考え方に相違があり、連携が取れない
・正論を言えない雰囲気がある
全てとは言わずとも、「いくつか思い当たる節がある」という方は多いかと思います。
実はこうした事象は、現在の企業に特有の問題ではありません。むしろ、遥か昔から存在していた「いかなる組織にも必ず発生し得る欠陥」と言って良いでしょう。
上に挙げたような事象が繰り返された末、敗北という結果に至った代表例が、旧日本軍です。今回は、その詳細について経営学者の野中郁次郎氏らが研究・執筆した『失敗の本質 日本軍の組織論的研究』(中公文庫)を紹介します。
本書では、ノモンハン事件、ミッドウェー海戦、ガダルカナル作戦、インパール作戦、レイテ海戦、沖縄戦という6つの戦いについて分析が行われています。それぞれの戦いの経過を必要な範囲で描きつつ、その中から敗北に至った「失敗の本質」が抽出されるという流れです。
初版の発行は1984年なので、40年ほど前の作品ですが、「組織研究の名著」として今なお多くの経営者や政治家が薦めています。経営に関わる方や、組織のリーダーを目指す方にとって有益なのはもちろん、それ以外の方も、自身の行動を顧みるきっかけとして、読んでおいて損はありません。
序章 日本軍の失敗から何を学ぶか
一章 失敗の事例研究
1 ノモンハン事件――失敗の序曲
2 ミッドウェー海戦――海戦のターニング・ポイント
3 ガダルカナル作戦――陸戦のターニング・ポイント
4 インパール作戦――賭の失敗
5 レイテ海戦――自己認識の失敗
6 沖縄戦――終局段階での失敗
二章 失敗の本質――戦略・組織における日本軍の失敗の分析
三章 失敗の教訓――日本軍の失敗の本質と今日的課題
本書では「太平洋戦争において旧日本軍はなぜ敗北したのか」が主題とされていますが、「歴然とした日米の国力差を考えれば、この戦争は日本が負けて当然であった」という見地が大前提となっています。
ただ、個々の戦いに目を向けたとき、「より有機的・効果的に部隊を動かして敵に大きな損害を与える」「死傷者を無為に拡大することなく戦略的撤退を図る」といった善戦・善処はできた可能性が大いにあります。
では、なぜそれすらできないまま、旧日本軍は各地で無残にも敗北を遂げてしまったのでしょうか。ここでは各作戦の詳細な説明は割愛しつつ、旧日本軍の失敗が顕著に表れている部分を見ていきます。
合理性より私情を優先した意思決定
第一の敗因は、意思決定において合理性よりも情緒的な要素が重視されたことです。
例えばインパール作戦の際、明らかに無謀な攻勢を主張した牟田口廉也中将に対して、彼を制止できる唯一の存在であった河辺正三大将は、「何とかして牟田口の意見を通してやりたい」と私情を優先した意思決定を行いました。
この二人は盧溝橋事件においても上司と部下の関係であり、昵懇の間柄でした。河辺大将としては「やる気に満ちた可愛い後輩の望みを叶えたい」という心持ちだったのでしょうが、それが悲惨な結果を招くこととなりました。
また、ノモンハン事件では、味方の火力不足を進言する者に対して、旧日本軍の作戦課が「一挙にソ連軍を撃滅しようという意気に溢れているときに、そのような消極的意見は不適当である」と反駁して、異論を退けています。
ガダルカナル作戦においても、「不都合な真実」を説く者は司令部の怒りを買い、悲観的な意見を述べた参謀は更迭されています。同様の事象は、あらゆる作戦において見受けられました。
確かに、作戦の成功に疑義を呈すれば、士気の低下に繋がる恐れはあります。しかし、戦力や地形などの合理的な分析に基づく異論は、「敗北」という最悪の事態を避ける上では一考せねばなりません。
相手に忖度して命令内容が曖昧に
旧日本軍では、相手の気持ちを推し量った結果、命令の内容が極めて曖昧なものになるという事象もたびたび起きていました。
例えばノモンハン事件において、日本側の不利を悟った大本営(旧日本軍の最高統帥機関)は、「被害が拡大する前に撤退すべき」との考えを持つに至りました。しかし、戦意に溢れる現場の関東軍に忖度して、作戦中止を厳命はせず、「使用兵力を制限すべし」といった微妙な表現で作戦中止の意図を暗に伝えようとしたのです。
当然ながら、関東軍はこれを「作戦中止命令」とは受け取らず、戦いを続行。これによって日本側の犠牲が拡大する結果となりました。
インパール作戦でも、同様の失敗が繰り返されました。大本営は同作戦に懐疑的であり、現場の第十五軍には、作戦の柔軟性と堅実性を考慮するように通達がなされるはずでしたが、指令内容は不明瞭でした。結局、第十五軍はその命令を自分たちに有利なように解釈し、無謀な作戦へと突き進むことになります。
このように、旧日本軍の命令伝達においては婉曲的な表現が多用され、「この言い方で意図は十分に伝わっているはずだ」「現状の雰囲気ならば作戦は修正されるだろう」「こちらの顔色できっと察してくれる」といった、「不確実な期待」が蔓延していました。これでは齟齬が起きるのも自明と言えるでしょう。
先入観に基づく楽観的な判断
第二の敗因は、多くの作戦において、司令部が様々な先入観に囚われたまま判断を下していたことです。
例えばミッドウェー海戦時、旧日本軍は「米軍の空母部隊は現海域の付近には存在しない」と思い込み、全ての航空戦力をミッドウェー島の攻撃に費やしました。その結果、米軍の奇襲に対処するのが遅れ、敗北を喫したのです。
ノモンハン事件でも、旧日本軍は「ソ連軍が東部方面に大兵力を展開することはない」と決めつけて作戦を遂行し、敵から集中砲火を浴びることになります。
そもそも旧日本軍には、相手の戦力や精強度を過小評価する傾向がありました。ノモンハン事件では「ソ連軍に対しては三分の一程度の兵力で十分戦える」とされていましたし、インパール作戦においても「英印軍は中国軍より弱く、果敢に攻めれば必ず退却する」と唱えられていたのです。
前述した牟田口中将は「心配いらん。敵に遭遇したら、銃口を空に向けて三発撃つと、相手が降伏する約束になっとる」と豪語しており、開いた口が塞がりません。彼は兵站を考えない無謀な作戦を遂行し、自身の率いる兵が次々と餓死していく中でも、「日本軍のみが強靭な精神力を持ち、日本の兵は神に守られている」と本気で信じていたようです。
戦艦大和や零戦は世界最強だったが…
本来であれば、こうした先入観を取り除くために、的確な情報に基づく事実認識が必要なのですが、旧日本軍はこの「情報」という武器を軽視していました。
ミッドウェー海戦では索敵こそ行われたものの、敵艦の見落とし、発見位置の誤認、報告の不手際などが重なって、米軍の奇襲を許しています。ただ、これは必ずしも旧日本軍の練度不足や不運だけが原因とは言い切れません。
旧日本軍の情報軽視は、兵器開発を行う上での資源配分にも表れていました。旧日本軍は、当時世界最強と謳われた戦艦大和や、世界最高水準の航続能力、スピード、戦闘力を誇る零式艦上戦闘機(通称「零戦」)の開発には膨大な資金を注ぎ込んだ一方、索敵能力の向上に繋がる偵察機やレーダーの開発にはあまり資源を振り向けなかったのです。
こうした情報収集能力の軽視は、レイテ海戦でも顕著な影響を及ぼしました。第一遊撃部隊を率いた栗田健男長官は、誤った報告や不正確な情報に基づく「思い込み」によって、元々予定されていたレイテ湾への突入計画を土壇場で中止し、反転して戦場となるはずの海域から去ってしまったのです。
レイテ海戦では、第一遊撃部隊のレイテ湾突入を成功させるために全ての部隊が動いていましたが、その努力は水泡に帰しました。
いつの間にか手段が目的に
第三の敗因は、作戦目的が参加部隊に浸透していなかったことです。それが明確に表れているのは、ミッドウェー海戦でしょう。
この戦いにおける日本側の主目的は本来、米国の擁する空母部隊の撃滅にありました。ミッドウェー島への攻撃はあくまで米軍を誘い出すための手段に過ぎず、この島の攻略は求められていなかったのです。
しかし、日本側は前述したような索敵の失敗や先入観に基づく判断もあり、ミッドウェー島への攻撃に固執しました。その間に米国の空母部隊が出現し、慌てふためくことになります。
言わば手段が目的化した結果、旧日本軍は真の主目的であった米国の空母部隊に打撃を与えられませんでした。それどころか、海戦に参加した空母4隻の全滅を含む大損害を被ることとなったのです。
“グランドデザイン”の欠如
そもそも、日本にはこの戦争を行う上での“グランドデザイン”が欠けていました。元々は「東南アジアに進出して石油資源を確保した上で早期の講和を図る」といった大きな目標到達地点があったはずですが、戦争を遂行する中で忘れ去られてしまったのでしょう。
一方の米国は、「日本本土を襲撃し、日本降伏という形で戦争を終わらせる」という大目的に基づいて、全ての戦略を立てていました。「日本占領下の島を一つずつ奪っては前進し、日本本土を空襲圏内に収めたのち、最終的には沖縄から上陸する」という流れは、当初から決まっていたことです。
当然、本書で紹介されているガダルカナル島も、米軍にとっては「日本本土へ至るための確かな一里塚」という位置づけだったわけですが、日本側の大本営には、この島の名前すら知らなかった者がいたといいます。この島の重要性や、米国の意図に気付いていた人間は、少なくとも指導者層の中にはいなかったようです。
一点物の日本vs標準化の米国
米国はこうした大局的視点から、この戦争が一大消耗戦であることを認識していました。そのため、巨大な空母に至るまで設計を標準化し、大量生産を可能としていたのです。また、武器や兵器に関しても、一般的な兵士が容易に操作できる仕様となっていました。
これに対して日本は、艦船や航空機の製造にあたって“一点物”とも言うべき作り込み方をしていました。もちろん、毎回改良を加えられるという利点はありましたが、米国の圧倒的な物量の前には歯が立ちませんでした。
兵器についても同様です。零戦に代表されるように、日本のものは、その性能を遺憾なく発揮させるためには名人芸を必要としたため、搭乗員の希少価値が非常に高く、その補充がボトルネックとなりました。
成功を捨て切れなかった日本
さて、ここまで書いてきたような「失敗」が積み重なった結果、旧日本軍は無残な敗北を遂げることとなったわけですが、こうした組織の体質は、どのように構築されたのでしょうか。
本書では「旧日本軍は環境に適応しすぎて失敗した」との結論が下されています。逆説的ですが、現状の環境に適応しすぎたために、その前提となる時代や社会が変化した際の適応能力が失われてしまったというのです。「過去に上手くいったから」という理由で同じやり方を続けていたら、それが時代遅れとなっていることに気付けなかったわけですね。
具体的には「旧日本軍は日露戦争の際の成功体験を捨て切れなかった」と言えます。陸軍は203高地を奪取した戦いを経て、「白兵戦による銃剣突撃こそ勝利を得るための至高の手段である」との認識を強めました。また海軍は日本海海戦における大勝利から、「海戦では主力戦艦同士の砲戦で決着をつけるのが常道」と考えるようになりました。いわゆる、白兵銃剣主義と大艦巨砲主義です。
この結果、日露戦争から40年を経た太平洋戦争当時でも「帝国陸軍の伝統的戦法である白兵銃剣による夜襲で米軍の撃破は容易である」と唱える者は多く、この信念をもとに立てられた杜撰な作戦で、数多の兵が無謀な突撃へと駆り立てられました。
海軍も、「航空機を駆使した戦い」へと時代が移り変わっているにもかかわらず、あくまで戦艦同士の砲戦にこだわりました。これが根源的には、ミッドウェー海戦やレイテ海戦の敗北に繋がっています。
“玉砕”が学びの芽を摘んだ
日本が旧態依然とした白兵銃剣主義と大艦巨砲主義から抜け出せなかったのは、敗北に際して、その原因を科学的に分析することを怠ったためです。ある参謀は戦後、「皆、十分に反省していたため、死人に鞭打つような真似をする必要はないと考えた」との旨を語っています。失敗の原因を追究せねば、同じことを繰り返す可能性が高まるのも当然でしょう。
また、旧日本軍では生き残ることが怯懦とみなされていた点も見逃せません。敗軍の将兵が“玉砕”してしまうので、日本は敗北の貴重な経験を次に生かすことができませんでした。
一方、米軍は失敗から多くを学んでいました。そもそも、真珠湾への奇襲攻撃で航空機の破壊力を米国に教えたのは日本です。彼らは島から島へと移っていく戦いに合わせて「水陸両用作戦」を開発し、陸海空全ての部隊を有機的に動かしていました。陸軍と海軍の間でしばしば対立が起こっていた日本とは随分と様相が異なります。
旧日本軍の失敗を「他山の石」とする
国家でも、企業でも、これまでの成功に安住せず、常に「次の一手」を打たなければ、永続的な成長はありません。たとえ今は時代や市場に適応していても、あえてそこから飛び出す勇気がなければ、近い将来、現在の地位を追われかねないのです。
もちろん、「言うは易く行うは難し」でしょう。いわゆる「イノベーションのジレンマ」を克服する難しさは、今回取り上げた旧日本軍の事例に止まらず、古今東西で共通しています。
それでも、一人ひとりが「常識に囚われていないだろうか」「思考停止に陥ってはいないか」と意識することは、問題の本質を見抜くきっかけになるかもしれません。
本書はあくまで旧日本軍の失敗を題材とした書籍ですが、その内容の根幹は、企業や個々人が自らの行動を顧みる上でも役立ちます。「他山の石」として必ず糧になるかと思いますので、是非手に取ってみてください。