文化人類学の名著!レヴィ・ストロース『悲しき熱帯』

アマゾンに住む「未開」の民族を調査

 人類はどのように発展してきたのか、その経緯を文化的な側面から研究するのが文化人類学です。今回は、その文化人類学の名著と称されるレヴィ・ストロース(1908~2009)の『悲しき熱帯』(中公クラシックス)をご紹介します。 

悲しき熱帯〈1〉 (中公クラシックス)

悲しき熱帯〈1〉 (中公クラシックス)

  • 作者: レヴィ=ストロース,Claude L´evi‐Strauss,川田順造
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2001/04/01
  • メディア: 単行本
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  レヴィ・ストロース及び『悲しき熱帯』の名は、高校時代に世界史や倫理で習ったことがありましたが、実際に読んだのは初めてでした。手に取ると、上下巻合計800ページの大作で、読むのには少々時間がかかりました。

 元々サンパウロ大学の教授でもあったレヴィ・ストロースは、1938年に研究のため南米、特にブラジル奥地に住む「未開」の民族を調査。その折の体験が『悲しき熱帯』の約3分の2を占めています。ちなみに、本作の発表は1955年です。

 具体的な出来事や観察した事柄が感受性豊かに描かれていて、「これがフィクションであれば、ゴンクール賞(フランスで最も権威のある文学賞)を取れた」とも言われています。

人間は既存の枠組みに縛られている

 レヴィ・ストロースと言えば、「構造主義」という言葉を思い浮かべる方も多いでしょう。構造主義とは、現象の中に潜在的な構造を見出し、それによって別の現象を理解したり、何らかの位置付けをしたりする方法論です(あくまで方法論なので、古典主義、ロマン主義といった「精神思想」ではありません)。

 同じフランスの哲学者であるポール・サルトル(1905~1980)は「モノは存在する目的が先に立ち、そのために作られるのに対し、人間は実存が先にあり、『何のために生まれて来たのか』という本質は自ら取りに行かねばならない」とする実存主義を唱え、「人間は自由という刑に処せられている」とまで主張したのですが、レヴィ・ストロースはこれに対して「私たちが自由と思って行っている言動も、実は何かに規定されているのではないか」と反駁しました。

 例えば、僕らは自由に文章を書けますが、実は文字や言語というある種の「枠組み」に囚われているとも言えます。また作品自体も、結局は既存のものの組み合わせで成り立っており、「もはや全く過去に縛られない新規性を生み出すのは難しい」とするのがレヴィ・ストロースの立場です。

精神性に時代・地域・民族の別は無い

『悲しき熱帯』はあくまで文化人類学を主軸としているので、あまり構造主義そのものについて明確には書いていません。ただ、先住民が伝統的に守ってきた婚姻のあり方や、権力が発生する起源など、他の社会と共通する部分(=構造)が描かれており、興味深い限りです。

 僕が特に面白いと感じたのは、民族の首長が持っている才能についてレヴィ・ストロースが記載した箇所です。それによると、「どのような人間の集団においても、他の仲間とは異なり、責任を持つこと自体に惹かれ、公の仕事そのものを報酬とするような人間がいる」とのことでした。

 経営誌の記者という仕事柄、僕は様々な企業のトップに会いますが、まさに「人の役に立つことこそを喜び」とする方が多くいます。彼らは金銭的な報酬よりも、社会貢献への欲求の方が高いため、「仕事が辛い」「辞めたい」といったネガティブな発言をすることはほとんどありません。

 他の人よりも圧倒的に多くの失敗を経験してきているはずですが、実はこれまでの苦労話を聞くと、一言目には「特にありません」と返されることも少なくない。こうした精神性の人間は、時代や地域、民族の違いに関係なく、どのようなコミュニティにも一定数存在するタイプなのでしょう。f:id:eichan99418:20190417024521j:plain

文明レベルの高さ≠その民族の優秀性

『悲しき熱帯』では、一般的に「未開」とされてきたアマゾン地域の民族の首長も、自分たちの未来を客観的に考えていることが述べられています。あるリーダーは西洋文明を積極的に吸収しようと試み、もう一方のリーダーは「未開」のままでいることへの危惧から、ある程度発達した別の村との合併を模索するなどしていたというのです。

 ここから見えてくるのは「物質文明の発達レベルの高さ」と「その民族の地頭の良さや論理的思考能力の高さといった優秀性」に相関関係は無いということです。ある首長など、レヴィ・ストロースの文字を真似して書き、自分の民族の者に見せつけることで自らの権威を高めたと言います。

 僕らは文字について、「読めなければただの記号に過ぎない」と思ってしまいますが、その首長は(意味は分からずとも)文字を書けること自体が民族の中で格式高さの象徴になると考え、上記の行動を起こしました。彼は、「文字」が自分にとってどのような使い道を持つか、一瞬にして理解したということになります。

文化の発展に文字は必要ない

 文字と言えば、本作品の中でもう一つ興味深かったのが、レヴィ・ストロースの「文字の発明は文化の発展に必須とは限らない」という主張です。彼は、農耕経済や動物の家畜化といった人類史上の転換点となるような革新は、文字が発明される前に為されたと指摘します。

 確かに、高い文化レベルを誇っていたとされる南米西海岸のインカ帝国(1438~1533)も文字を持たない文明として有名で、縄を結ぶことで数を数える「キープ」はご存知の方も多いでしょう。

 18~19世紀の産業革命や20世紀半ばのコンピュータ発明、そして20世紀末のインターネット登場など、近年も人類史に残るであろう変化はたびたび訪れていますが、これらが文字の発明によって発生した現象でないことは明白です。

 従来は、過去の記録を文字に残すことで子孫へと情報が伝わり、それによって文明が発達するとされてきましたが、知の巨人たる文化人類学者がその説を否定したことは衝撃でした。

 以前、「人間は祖父母・両親・子と3世代に渡って共に暮らすことのできる唯一の動物だからこそ知能が発達した」とする説を聞いたことがありますが、レヴィ・ストロースもそうした主張に近いのかもしれません。

現在から過去を学ぶという逆転現象

 また、レヴィ・ストロースの表現で納得したのは、歴史に対する逆転現象です。私たちは通常、歴史(=過去)を学ぶことで、現在や未来に活かします。しかし、今まさにある「未開」の集落を視察したレヴィ・ストロースは、「現在を見ることで過去を学んだ」と言うのです。

 当然、いかなる地域も元々は全て未開でした。そして、構造主義を唱える彼からすれば、「人間の行動の本質は同じ」ですから、現在「未開」であるアマゾン諸部族の行動を分析すれば、過去の人間の思考も理解できるというわけです。

 GDPなど物質文明的な指標においては、先進国と未開地域の差は歴然としています。そもそも、貨幣経済からデジタルマネー時代を迎えようかという世界に対して、「未開」の諸部族は未だに物々交換ですから、経済規模を数値化して比較すれば天文学的な倍数が出てくるでしょう。

 ただ、幸福度という面から見れば、どうかは分かりません。あの北朝鮮ですら、情報が入ってこない中で暮らしていれば、「これが当然」と思っている国民もいるかもしれないのです。

 もちろん彼の国では、インターネットなどを通じて情報が入れば、自由主義の方が良いと思う人々が沢山出てくることでしょう。しかし、「未開」地域の民族は先進国の状況を知ったところで、あくまで自身の伝統的生活を守ろうとする可能性もあります。

もはや「未開」の地は消滅しつつある

 それでも、もはや人間の住める空間で「未開」と呼べる場所は地球上にほとんど存在しないかもしれません。僕自身、南米を旅した際、ペルーのティティカカ湖にトトラという藁を編んで作った人工島を浮かべて住んでいる民族のもとを訪れましたが、完全に観光地化されていました。

 現地人から片言の日本語で話しかけられましたし、藁の屋根にはソーラーパネルが設置されており、彼らはそこから電源を取ってスマートフォンを充電していました。昔ながらの先住民を想定していた僕としては、幻滅した覚えがあります。

 アマゾン地域でも、1938年にレヴィ・ストロースが探検を行った時点で、20人にも満たない部族がいるなど、先住民は疫病や部族間闘争で激減するか、ブラジル国民に同化されかけておりました。

 むしろ、20世紀まで近代国家の手が届いていない場所があったことの方が驚きです。ブラジルがポルトガルから独立したのは1822年。それから100年以上が経っているわけですからね。

 文化人類学も他の学問同様にかなり奥が深いですね。イギリスの女性探検家イザベラ・バード(1831~1904)や日本が誇る民俗学者の柳田國男(1875~1962)、宮本常一(1907~1981)といった人々の著作も合わせて読んでいくと、さらに視野が広がりそうです。