大江健三郎『万延元年のフットボール』/ノーベル賞作家の描く“罪と罰”

早熟な新進作家として文壇に立つ

 日本人2人目となるノーベル文学賞の受賞作家として知られる大江健三郎(1935~2023)。今年3月に亡くなったことで改めて注目が集まり、追悼コーナーが設けられている書店もあります(2023年6月末現在)。

 大江は1958年、東京大学文学部に在学中、短編『飼育』で第39回芥川賞を受賞しました。これは、当時最年少(23歳)での受賞。実は、その前年に発表した『死者の奢り』も第38回芥川賞候補となっており、早熟な作家であったことが伺えます。

 今回はそんな大江健三郎の代表作であり、転換点となった作品でもある長編『万延元年のフットボール』(講談社文芸文庫、1967年発表)を紹介します。ちなみに、本作も歴代最年少(32歳)で谷崎潤一郎賞を受賞しています。

 この作品は純文学の小説ながら、かなりしっかりとしたストーリー展開があり、その面でも楽しめます。物語の真相に関わる部分はネタバレしないように書いておりますので、ご安心ください。

外界から隔絶された四国の寒村が舞台

 本作の主な舞台となるのは、四国の山奥にある寒村。主人公で語り手の根所蜜三郎は、アメリカから帰国した弟の鷹四に誘われ、妻の菜採子とともに、故郷である寒村に帰省して新生活を始めることになります。しかし、鷹四にはこの村で企てようとしている計画があり、それが重大な事件へと発展していく――というのが大まかな流れです。

 さて、現代(1960年代前半と思われる)の出来事とは別に、この寒村では約100年前の万延元年(1860年)、村の人々による一揆が起こったことが端々で語られます。その指導者となったのが、蜜三郎や鷹四から見て曾祖父の弟に当たる人物でした。この一揆の顛末が、物語に深く関わってきます。『万延元年のフットボール』というタイトルがこの一揆の際の元号に由来しているのは、ご推察の通りです。

 そのほか、戦後まもない頃、この村の人々が、近くにあった在日朝鮮人の集落を襲撃する事件があり、その際に蜜三郎や鷹四の兄であるS次が殺害されたことも早い段階で明かされます。このとき襲われた側にいた在日朝鮮人の1人が、徒手空拳で商売人として成り上がり、今や寒村を経済的に支配しているという現状も、本作において重要な背景です。

 余談ながら、この村のモチーフとなっているのは、大江自身が生まれ育った故郷、愛媛県喜多郡大瀬村(現内子町)です。県庁所在地の松山市から南へ40kmほどに位置しており、今でこそ道路網が整備されていますが、山深い地域であることは変わりません。大江が幼少期を過ごした1930年代後半には、かなり交通の便が悪かったことでしょう。本作以外にも、大江は故郷の村を踏まえた作品を数多く残しています。

罪・恥の意識・自己処罰

 本作全体の奥底にあるのは、登場人物たちの「罪」とそれに対する「恥の意識」、そしてその「恥」の禊を行うための「自己処罰」という贖罪の概念です。これは主人公の蜜三郎、弟の鷹四、妻の菜採子、兄のS次、曾祖父の弟といった主要な登場人物に共通しています。

 ネタバレになってしまうので詳しくは明かせませんが、各人が何らかの「罪」を背負っており、自身の考える「自己処罰」を行うことでそれを贖おうとしています。本作には、その結果として生じた様々な逸話が、端々に散りばめられているというわけです。中でも、物語の軸を成す最も重要な「罪」は鷹四のものなのですが、それが語られるのは最終盤ということになります。

 なぜ鷹四は故郷の村に戻ってきたのか。彼はどのような「罪」を犯したのか。また、万延元年に一揆を主導したとされる蜜三郎や鷹四の曾祖父の弟は何を考え、どのように動いたのか。

 本作には、これらが徐々に明かされていく、いわばミステリーのような要素も含まれています。題材が題材だけに、決してハッピーエンドとは言えない終わり方ですが、読後にはストンと腑に落ちた感覚を抱くことができるでしょう。

堅い文体だが難解ではない

 さて、この『万延元年のフットボール』が文体と描写で魅せる純文学という位置付けである以上、それらについても語らねばなりません。まずは文体を見ていきましょう。

 本作は全体的に言葉が堅く、難しい熟語が使われていたり、迂回するような言い方がされていたり、一つの単語に対して長い修飾が行われたりしているため、読者には一般的な読書よりも重い負荷がかかります。

 例えば、下記のような箇所には、それがよく表れているでしょう。

本文より引用

朱色の頭をした友人の肉体は、かれが憐れにも勤勉に狭い暗渠をくぐりぬけるように生きて、しかも向うがわに抜け出すまえに、突然おしまいにしてしまった二十七年の生涯のいかなる時においてよりも緊迫した、危険な実在感をたたえて、軍隊風の簡易ベッドに横たわり、傲岸に腐敗しつづけた。
ーーー
僕は、友人の死体が、その存在の全期間にわたって、ただいちどきりの飛行をおこなう醇乎たる時間圏を見まもるうちに、くりかえし可能で幼児の頭頂のようにやわらかく暖かい、もうひとつの別の時間の脆さを納得させられた。
ーーー
僕は正体不明の敵に攻撃された闇雲の不安に赤くなりながら自己防禦の態勢を整えるべく努めた。
ーーー
若者たちがますます軽蔑心を昂じさせ自然に闖入者を無視しはじめるのを希望して、僕は哀れな空腹の夫を演じた。

 この傾向は地の文で顕著ですが、下記の引用のように、セリフにおいても堅い熟語や文学的な比喩が駆使されている点では同様です。

本文より引用

「アメリカで、きみは迷信家の精神を獲得してきたのかね」
ーーー
「ギーは、野犬みたいに異様な敏捷さで坂を駈け降りてゆく。かれの後姿を見送っていて、とうとうかれが見えなくなると、谷間全体が夜なんだ。ギーは、昼と夜のあいだの窮屈な隙間を正確無比に駆けぬけて行ったものだった。(中略)」
ーーー
「森の恐怖をそのように敏感に感じとる人間は、発狂して森に逃げこむ人間と対極をなすかといえば、それはそうではなくて、むしろこのふたつの人間は、心理的にはひとつのタイプだと思うよ」
ーーー
「(中略)そういう連中の柔らかなできそこないの頭のなかの、ものほしげな甘ったれ根性も、幾らかはタフな憎悪の酢にかわったと、おれは信じたいよ」

 舞台が1960年代ということを考慮しても、これらのセリフは家族や友人同士が話す口語としては不自然と言えるでしょう。

 ただ、地の文、セリフともに「難解すぎて何度読んでも意味が分からない」というほどではありませんし、表意文字である漢字を重ねて構成される熟語からは、表現したい事柄を直感的に伝える効果があるのも事実です。

セリフ直後に見える描写の細かさ

 描写としては、語り手の蜜三郎が明晰な頭脳と鋭い観察眼を持っているため、彼自身の考えはもちろん、蜜三郎を通してほかの登場人物の感情や思考、風景や人の動きについて、かなり細かく描かれます。

 これに関しては、作品全体を通して散見されますし、引用していると長くなってしまうので省略しますが、一つ特徴的な部分を挙げるとすれば、セリフの直後を見ると分かりやすいかもしれません。

 一般的にセリフのあとは「~~と言った」「~~と答えた」「~~と尋ねた」のように、手短に書かれることが多く、せいぜい「~~と明るい声で返した」と軽い修飾がなされる程度ですが、本作ではセリフのあとに追加される情報量が通常より格段に多いのです。少しページをめくっただけで、該当する箇所が次々に見つかります。

本文より引用

(中略)若者を子供あつかいして嘲弄する様子で歌うように水をさした。
ーーー
(中略)僕は鷹四が日常的な平静さの枠内におさめる分析に納得しがたい気分でくりかえした。
ーーー
(中略)ジンは自分自身を理不尽に励ますべく異様に力をこめていった。

2年の沈黙期間を経て書かれた大作

 大江健三郎は、障害を持った子どもが生まれたことを機に、主題や文体をがらりと変えたと言われています。本作の最後に掲載されていた大江自身のコメントによると、この『万延元年のフットボール』は、2年もの沈黙期間を経て、かつその間に書き溜めた原稿を全て焼き捨てた上で執筆したとのことです。

 その空白の2年間は、それまでの文体を破壊して再構築するための期間であったということなのでしょう。実際、『死者の奢り』『飼育』といった初期の作品と比べると、誰が見ても分かるほど、明確に文体は変わっています。

 大江健三郎と言えば、芥川賞、谷崎潤一郎賞、ノーベル文学賞といった錚々たる文学賞を受賞してきた純文学の巨星ですので、その作品は難解とのイメージを抱く方もいるかもしれません。

 もちろん、『万延元年のフットボール』の描写には堅い表現が使われており、特に地の文を読み進めるのは少々骨が折れる面もありますが、精神状態に合わせて登場人物の体調や容姿に変化が生じたり、各人の「罪」と「自己処罰」の内容を整理して理解できたりする点、意外に論理的な解釈のしやすい作品のように感じられます。

 また前述のように、本作は純文学の作品ながら、物語としても面白く読める小説です。特に、歴史に関心のある方には刺さるのではないでしょうか。数ある大江作品への入り口としても、適当な一作かと思います。