出羽の要、山形城(前編)/最上義光雄飛の拠点

伊達政宗と並ぶ東北の名将

 戦国時代において「東北の雄」と言えば、伊達政宗(1567~1636)を思い浮かべる方が多いと思いますが、彼と並んで戦乱の世を生き抜き、出羽山形藩57万石の礎を築いたのが最上義光(1546~1614)です。最上義光の妹である義姫(1548~1623)が伊達政宗の母ですので、2人は叔父と甥の関係。ちなみに、最上義光は「もがみ・よしみつ」ではなく「もがみ・よしあき」と読みます。

 この最上氏の祖である斯波兼頼(1316~1379)が築城したのが、山形城です。彼は南北朝時代(1336~1392)に活躍した武将で、北朝に仕えました。室町幕府より命じられて、出羽(現在の秋田県と山形県)を統括する要職の羽州探題に就任。山形城は、その過程で本拠として構えられました。

 今回は、公益財団法人日本城郭協会が選定した「日本100名城」にも指定されている山形城と、最上氏にまつわるエピソードをご紹介していきます。城へのアクセスや営業時間、「日本100名城」スタンプ設置場所など、基本情報のみ知りたい方は、最後の「まとめ」に記載しておきましたので、そちらをどうぞ!f:id:eichan99418:20190910031122j:plain

復元された東大手門などを見学可能

 前述の通り、山形城の基礎を築いたのは斯波兼頼ですが、これを拡充して城郭としての機能を向上させたのは最上義光です。また、江戸時代を迎えてからも、歴代藩主によって様々な改築・改修が行われました。

 現在でも、復元された本丸の一文字門二の丸の東大手門を見ることができます。東大手門は展示スペースにもなっており、無料で見学が可能。ここには「日本100名城」スタンプも設置されています。

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本丸の一文字門

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二の丸の東大手門

 城内には、山形城改築の折に使われた大石も置いてありました。石には鑿で刻印された痕や、赤い墨で書かれた印がハッキリと付いており、下の写真でも「安政二年」などと書かれているのが見て取れます。ちなみに、安政2年は西暦に直すと1855年です。

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右側に「安政二年」の文字

 その他、石を積む際の細工方法を説明したコーナーや、石を運ぶのに使われた「修羅」の復元模型など、展示が充実しています。

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石の運搬に使われた「修羅」

天皇家にも繋がる由緒正しい家系

 南北朝時代から江戸時代にかけて山形城を居城とした最上氏は、前述の通り、室町幕府の要職に就いていた斯波氏の流れを汲んでいます。斯波氏は元々、室町幕府の将軍家である足利氏と祖を同じくする家柄であり、だからこそ幕府から重要な役目を任されていたのです。

 そして、将軍家となれることからも自明なように、足利氏は源氏から分かれた血筋です。「清和源氏」と呼ばれる通り、源氏の始祖は第56代清和天皇(850~881)まで遡りますので、最上氏は天皇家の血を引く由緒ある家系ということになります。彼らがこの系図を誇りとするのも当然でしょう。

 これについては、実際に家系図を見た方が分かりやすいかと思いますので、最上義光歴史館にて撮影させていただいた下の画像をご覧ください。f:id:eichan99418:20190910031453j:plain

 右上に清和天皇、右下に鎌倉幕府初代将軍である源頼朝(1147~1199)の名前が見えますね。また、源頼朝の少し左上には室町幕府初代将軍の足利尊氏(1305~1358)もおります。さらに、足利尊氏と共に鎌倉幕府を倒し、その後の南北朝時代には南朝の総大将となる新田義貞(1301~1338)も、新田氏の末裔として家系図に名を連ねています。これらの人々は全員、「清和源氏」の流れを汲んでいるわけです。

 こうした錚々たる家系から出てきた斯波氏は、織田信長(1534~1582)が台頭する以前の尾張(愛知県西部)や、越前(福井県東部)、遠江(静岡県西部)の守護大名として勢力を誇りました。中でも分家である大崎氏と最上氏が、それぞれ奥州(東北地方東部)と羽州(東北地方西部)を任されることとなったのです。

家宝「鬼切丸」が伝わる

 最上氏が由緒正しい家系であることを示す証拠として、家宝「鬼切丸」があります。これは、平安時代の刀工である安綱(生没年不詳)が制作した太刀で、平安時代中期に作られ、源頼光(948~1021)が酒呑童子を含む鬼退治に使用したと伝わる代物です。

 鎌倉時代を経て、「鬼切丸」は同じ源氏である新田義貞の手に渡りました。しかし最終的には、南朝の総大将であった新田義貞と戦い、見事にこれを討ち取った北朝の斯波高経(1305~1367)が、この刀を所有することとなります。

 この斯波高経こそ、最上氏の祖である斯波兼頼にとって叔父にあたる人物でした。こうして叔父の高経から甥の兼頼に渡った「鬼切丸」は、最上氏の家宝として代々伝えられていったのです。

 ちなみに、この「鬼切丸」は現在、京都の北野天満宮に奉納されています。後述しますが、最上氏は後に窮状に陥ることとなり、食べていくために様々な家宝を手放しました。そうした中で「鬼切丸」も売りに出されてしまい、これを見つけた旧家臣の末裔たちが有志を募って買い戻したそうです。そして、今後決して売り払われることのないよう、北野天満宮に奉納したとのことでした。

「羽州の狐」か「善政の名君」か

 そんな名門の家系に生まれた最上義光でしたが、時は実力主義を是とする戦国時代です。羽州探題という家柄を振りかざすだけでは領土を守れません。最上義光も、あらゆる政略と武力を用い、自らの力で周囲を従えていきました。

 最上義光は、自身の病気を口実に、危険と思われる人物を招き寄せて暗殺するなど、謀略に長けた将として描かれることも少なくありません。「羽州の狐」などとも呼ばれています。ただ、戦乱を生き抜く上で、どの大名も多かれ少なかれ謀には手を染めていたでしょうし、彼が義を欠く人間であったと判断するのは早計です。

 実際に、最上義光は調略や戦争だけでなく、内政にも手腕を発揮したようです。領民には慕われており、現在でも山形県民からは英雄視されています。山形城二の丸に建てられているナポレオン・ボナパルト(1769~1821)のような騎馬像は、その何よりの証拠です。

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 数字を見ても、最終的に最上氏が安堵される山形藩57万石は、伊達氏の仙台藩60.5万石に引けを取りません。積極的に庄内平野を開発し、開墾を奨励したことから、実質100万石に近かったとする説もあります。

 領域の広さとしては山形藩より優に大きかったにも関わらず、佐竹氏の秋田藩は20.5万石、南部氏の盛岡藩に至っては10万石しかなかったことを考えると、気候の影響だけでなく、内政努力の差も大きかったのではないかと推察されます。

 また、最上義光は連歌の達人でもありました。里村紹巴(1525~1602)という人物を師匠とし、戦国武将としては細川幽斎(1534~1610)や前田玄以(1539~1602)に次いで多くの連歌を詠んでいます。最上義光歴史館では、彼の連歌集を販売しているほど。最上義光が決して粗雑な人物ではなく、むしろ教養溢れる文武両道の将であったことがうかがえます。

豊臣秀次に見初められた駒姫

 こうして動乱の世を生き抜き、豊臣秀吉(1537~1598)による天下統一を迎えた最上義光でしたが、これにて安泰というわけにはいきませんでした。

 最上義光には、駒姫(1581~1595)という美しい娘がおりました。そして奇しくも、奥州で起こった豊臣政権への反乱討伐のため、山形に立ち寄った豊臣秀次(1568~1595)が、彼女を見初めて「側室に迎えたい」と打診してきたのです。

 豊臣秀次と言えば、今や天下人となった豊臣秀吉の甥。しかも、その同じ年には関白に就任し、秀吉の後継者となることは間違いの無い存在でした。最上の家を守るためには、従わないわけにはいきません。

 最上義光の動物的勘が働いたのか、権力者に近付き過ぎると災いが起こることを知ってか、それとも単純に娘を「人質」として出すことに抵抗を感じてか、いずれにせよ彼は、この縁談を一度は断りました。

 しかし、豊臣秀次からは執拗な催促が来ます。最上義光は、駒姫がまだ12歳であることを理由に「相応しい教養を身に付けさせるので待ってほしい」と引き延ばしたものの、最終的には娘を差し出さざるを得ませんでした。

最愛の娘を殺した豊臣秀吉に恨み

 そして、この縁談が成るか成らないかという時に事件は起こります。豊臣秀次が謀反の咎を受け、豊臣秀吉によって切腹させられてしまったのです。この要因としては諸説ありますが、淀殿(1569~1615)との間に拾丸(後の豊臣秀頼、1593~1615)が生まれ、こちらを後継者にしようと目論んだ豊臣秀吉による粛清として描かれることが多いですね。

 この際には、豊臣秀次の一族や家臣など、何十人もの人が切腹または打ち首とされました。そして、最上義光による必死の助命嘆願も虚しく、駒姫も京都の三条河原で処刑されます。15歳という若さでした。

 駒姫は実質的にはまだ側室にすらなっていなかったにも関わらず殺され、最上義光自身も謀反に連座したと疑われて謹慎処分を受けます。最上義光の妻も、悲嘆のあまり2週間後には死去してしまいました。

 徳川家康(1543~1616)らの取り成しで改易こそ免れたものの、この一件により、最上義光は豊臣秀吉を深く恨むこととなりました。駒姫事件が、後に関ヶ原の戦い前夜の情勢下で、最上義光が迷うことなく東軍に加担した一因となった可能性は高いでしょう。

(後編はこちら

山形城まとめ          

①築城者
斯波兼頼(羽州探題最上氏の祖)

②築城年
1357年

③住所
〒990-0826 山形県山形市霞城町

④電話番号
023-641-1212(まちづくり政策部公園緑地課)
023-644-0253(山形市郷土館)
023-625-7101(最上義光歴史館)

⑤営業時間
・霞城公園
4月1日~10月31日:5:00~22:00
11月1日~3月31日:5:30~22:00

・山形市郷土館
9:00~16:30

・最上義光歴史館
9:00~17:00(入館受付は16:30まで)

⑥定休日
霞城公園は年中無休

⑦入園料
無料

⑧アクセス
・JR山形駅から徒歩10~15分
・ベニちゃんバス「霞城公園前」下車
・山形自動車道 山形蔵王ICから車で15~20分
※車両の出入は北門からのみ

⑨駐車場
霞城公園内の駐車場を無料で利用可能:230台
※身体障がい者等用5台、バス用5台

⑩日本100名城スタンプ設置場所
・山形城跡二ノ丸東大手門櫓(霞城公園内)
・山形市郷土館(霞城公園内)
・最上義光歴史館(山形県山形市大手町1-53)