南部氏の築いた盛岡城/石川啄木、宮沢賢治、新渡戸稲造にもゆかり

南部鉄器や南部煎餅にその名を残す

 戦国時代から江戸時代にかけて、現在の青森県東部から岩手県中部までを跨ぐ広大な領土を治めた南部氏。現在その名は「南部地方」と地域名になっている他、南部鉄器、南部煎餅といった現地の特産品も「南部」の名を冠しています。

 今回は、その南部一族の南部信直(1546~1599)が築き、江戸時代を通じて南部藩(後に盛岡藩と改称)の居城となった盛岡城と、この城にゆかりのある人物にまつわるエピソードなどご紹介していきます。本城は公益財団法人日本城郭協会が選定した「日本100名城」にも指定されているため、特にスタンプを集められている方は必見です。

 城へのアクセスや営業時間、「日本100名城」スタンプ設置場所など、基本情報のみ知りたい方は、最後の「まとめ」に記載しておきましたので、そちらをどうぞ!f:id:eichan99418:20190921202641j:plain

清和源氏の血を引く南部信直が築城

 南部氏の祖は、平安時代末期から鎌倉時代にかけて活躍した武将、南部光行(1165?~1236?)です。彼は、後に鎌倉幕府初代将軍となる源頼朝(1147~1199)に従って戦功を挙げ、甲斐や陸奥に地盤を築きました。

 南部光行は、由緒正しい武家の生まれです。彼の祖父の祖父は、久保田城と佐竹氏の歴史を紹介した際にも登場した源義光(1045~1127)。「八幡太郎」の名で知られる源義家(1039~1106)の弟に当たる人物です。ちなみに、源義家の直系の子孫が、源頼朝になります。

 そして、源義光の孫である源清光(1110~1168)の孫が、南部光行です。余談ですが、源清光の次男には武田信義(1128~1186)がおります。彼は何を隠そう、甲斐源氏4代目の当主にして、武田氏の始祖。この末裔(15代後の子孫)が、戦国武将として知らない人はいない武田信玄(1521~1573)です。

 南部光行には6人の息子がおり、それぞれ一戸氏、三戸氏、四戸氏、七戸氏、八戸氏、九戸氏の祖となりました。その中でも南部宗家となったのは三戸南部氏で、その血脈が受け継がれていった先に、盛岡城を築いた南部信直がいます。次男系統の三戸氏が宗家となったのは、長男が庶子であったためでした。

同族が同地を700年間治めた稀有な例

 南部信直は「南部氏中興の祖」と称されます。家督相続にあたって一悶着あった他、津軽地方を同族の津軽為信(1550~1607)に奪われるなど、決して順風満帆とは言えない武将人生を送ってきた彼でしたが、天下人が豊臣秀吉(1537~1598)から徳川家康(1543~1616)へと移り変わっていく時勢に適応し、見事に難局を乗り切りました。

 その結果、南部信直の長男で、南部家第27代当主の南部利直(1576~1632)が南部藩初代藩主となり、明治時代に至るまで南部氏が代々この地を治めていくこととなります。

 領土の大きさにこそ変化があるとはいえ、南部氏は鎌倉時代から明治時代にかけて南部地方の一定領域を支配しました。同じ一族が同じ土地を約700年間に渡って治めたというのは、世界でも稀有な事例です。

江戸時代260年間に80回もの飢饉

 南部藩は元々10万石とされていましたが、幕末には20万石に修正されるなど、石高には上昇が見られました。しかし、同じ東北地方でも伊達氏の仙台藩が60.5万石、最上氏の山形藩が57万石であったことを考えれば、その差は歴然としています。

 仙台藩と山形藩は実質100万石に近かったとも言われるのに対し、南部藩はそれら2藩と比べて遥かに広大な領土を持ちながら、5分の1程度の石高に止まりました。

 この原因としては、気候条件の厳しさが挙げられます。南部地方は古来より凶作に悩まされることが多く、約260年間の江戸時代を通して80回近い飢饉に見舞われました。記録に残っていないものも含めれば、その回数はさらに多くなります。特に沿岸部は冷風「やませ」の影響が激しく、作物は毎年のように壊滅的な打撃を受けました。

 こうした影響から、一揆も多発する傾向にありました。特に前近代の社会では、産業の発達に欠かせなかった人口も、江戸時代260年間で30万人から35万人とたったの5万人しか増えていません。南部氏は藩主として明治時代まで存続したものの、その藩政には多大な困難が伴ったのです。

詩人・石川啄木の庭だった盛岡城

 盛岡城二ノ丸には、同地ゆかりの人物に関連した様々なモニュメントも立っています。下画像の碑に刻まれているのは、歌人・詩人として有名な石川啄木(1886~1912)の詠んだ句です。

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石川啄木の詩碑

「不来方の お城の草に 寝ころびて 空に吸はれし 十五の心」

「不来方(こずかた)」とは、盛岡城の別名「不来方城」から来ています。石川啄木は岩手県盛岡尋常中学校に通っていた時分、よく学校を抜け出しては盛岡城に来ており、その時の様子を詠ったものでしょう。

 ただ、中学時代の彼は、上記のようにサボりがちで出席日数が不足しており、成績も芳しくなかったようです。加えてカンニングがバレるといったこともあり、勧告を受けて中学を退学しています。当時は戦前ですから、現在とは教育制度が異なり、義務教育の期間も短かったのです。

 それでも、この中学時代には、後に言語学者として大成する金田一京助(1882~1971)と親友になった他、与謝野晶子らの短歌に親しみ、文学の道を志すきっかけを得ました。

一握の砂・悲しき玩具―石川啄木歌集 (新潮文庫)

一握の砂・悲しき玩具―石川啄木歌集 (新潮文庫)

  石川啄木の年次から10年後とはいえ、宮沢賢治(1896~1933)も同じ中学校に入学した詩人・作家です。彼も同郷の先輩である石川啄木のことは意識していたようで、その影響を受けた短歌を作っており、城内に詩碑も建っています。

『武士道』で有名な新渡戸稲造を輩出

 盛岡城二ノ丸には、新渡戸稲造(1862~1933)の「願わくはわれ 太平洋の橋とならん」という言葉が刻まれた顕彰碑もあります。これは、彼が盛岡出身であることに由来しており、生誕100周年を記念して1962年に建てられました。

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新渡戸稲造顕彰碑

 新渡戸稲造は旧5000円札の肖像として誰もが知っている人物で、1900年に英文で出版した『武士道』も有名です。彼は札幌農学校(現北海道大学)の2期生であり、1920年の国際連盟設立に際しては事務次長に選ばれました。その他、東京女子大学の初代学長なども務めています。

武士道 (岩波文庫 青118-1)

武士道 (岩波文庫 青118-1)

南部利祥騎馬像の台座が残る

 二ノ丸から赤い橋を渡って本丸に至ると、立派な石の台座が姿を現します。ここには元々、日露戦争で戦死した南部家第42代当主、南部利祥(1882~1905)の騎馬像がありました。1908年に建てられたものの、第2次世界大戦下の1944年、貴重な金属として供出させられ、今では台座のみが残っています。

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南部利祥騎馬像の台座

 現在の盛岡城跡は、造園家の長岡安平(1842~1925)により、1906年に「岩手公園(現盛岡城跡公園)」として設計されました。彼は秋田の久保田城跡を「千秋公園」としてデザインした人物であり、「日本初の公園デザイナー」と言われます。

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盛岡城の間取りイメージ

 元々の城のイメージは、公園内に建つ「もりおか歴史文化館」で垣間見ることができます。上画像の中でも右上の、赤い間取りが描かれている部分が本丸にあたり、南部利祥の騎馬像台座もここに置かれました。

 そこから少しばかり左下へと目を移すと、堀の上を短い渡り廊下が通っていますが、これが現在赤い橋が架かっている部分です。そして、その先に黒い間取りの描かれている箇所が、二ノ丸となります。現在、石川啄木や新渡戸稲造の碑があるのはこちらです。

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もりおか歴史文化館

「もりおか歴史文化館」では、東北の歴史を踏まえて、南部地方や南部氏、盛岡について深く知ることができます。展示の仕方が工夫されており、興味深い映像資料なども楽しめますので、盛岡城と合わせて是非足を運んでみてください。

盛岡城まとめ          

①築城者
南部信直

②築城年
1598年

③住所
〒020-0023 岩手県盛岡市内丸1番37号

④電話番号
019-604-3300(プラザおでって2F 観光文化情報プラザ)
019-681-2100(もりおか歴史文化館)

⑤営業時間
・盛岡城跡公園(岩手公園)
年中散策自由

・もりおか歴史文化館
4月1日~10月31日:9:00~19:00(受付18:30まで)
11月1日~3月31日:9:00~18:00(受付17:30まで)

⑥定休日
・盛岡城跡公園(岩手公園)
年中無休

・もりおか歴史文化館
毎月第3火曜日(祝・休日の場合は翌日)
年末年始(12月31日~1月1日)

⑦各料金
・盛岡城跡公園(岩手公園)
無料

・もりおか歴史文化館
一般300円、高校生200円、小中学生100円

団体料金(20人以上に適用)や、石川啄木記念館、原敬記念館などとの各種共通券についてはこちらのサイトを参照ください。

⑧アクセス
・JR盛岡駅から盛岡都心循環バス「でんでんむし」左周りで10分、「盛岡城跡公園」下車
・東北自動車道 盛岡ICから車で10分

⑨駐車場
盛岡城跡公園地下駐車場(岩手公園地下駐車場):93台(有料)

⑩日本100名城スタンプ設置場所
・プラザおでって2F 観光文化情報プラザ(盛岡市中ノ橋通一丁目1-10)
・もりおか歴史文化館(岩手県盛岡市内丸1番50号)