毛利元就勇躍の本拠、吉田郡山城/西日本最大級の山城

毛利元就が要塞化した西国最大級の山城

 毛利元就(1497~1571)と言えば、戦国時代に中国地方で名を馳せた大名として有名です。元々は安芸(現在の広島県西部)の国衆を束ねる小領主に過ぎなかった彼ですが、巧みな外交と智略を駆使して日本有数の大大名へとのし上がっていきました。その毛利元就飛躍の舞台となったのが、吉田郡山城です。

 この城は1300年代半ば頃の築城に端を発し、毛利元就が巨大要塞化した西国最大級の山城でしたが、江戸時代初期には幕府の命令によって、石垣や堀まで含めて棄却させられてしまいました。現在残っているのは「ほとんど山のみ」という状況です。

 しかし、日を追うごとに勇躍していく毛利元就の居城として栄えた歴史と、発見された数々の遺構・遺物の価値が認められ、公益財団法人日本城郭協会が選ぶ「日本100名城」にも指定されています。

 今回は、そんな吉田郡山城と毛利氏の歴史についてご紹介しましょう。城へのアクセスや営業時間、「日本100名城」スタンプ設置場所など、基本情報のみ知りたい方は、最後の「まとめ」に記載しておきましたので、そちらをどうぞ!

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西国最大級の山城・吉田郡山城

登城には中腹の駐車場が便利

 吉田郡山城は流石に西国最大級と称される山城だけあり、本丸跡まで辿り着くには少々覚悟が必要です。全くの未整備ではありませんが、転びやすい石段、急勾配の山道、枯葉に覆われた岩場など、不安定な足場を登って行かなければなりません。

 僕が登城したのは2019年4月30日午前中で、天候は曇り。ほど良い涼しさの中での「山登り」だったものの、本丸に到着した時には汗だくでした。ただ、城内は毛利氏ゆかりの墓所や史跡の宝庫であり、ここから毛利元就が中国地方に覇を唱えていったと考えると、感慨もひとしおです。500年前、同じ道を元就が歩いていたわけですからね。興味のある方は是非一度足を運んでみてください。

 車でお越しの際には、山の中腹に設けられた上下2つの駐車場を利用することができます。下の大通院谷川砂防公園駐車場はお手洗いを備えており、駐車可能台数は8台。上の駐車場にも6台が駐車可能で、こちらは城への入り口が目と鼻の先です。

 ちなみに「日本100名城」のスタンプが設置されている安芸高田市歴史民俗博物館にも15台分の駐車場がありますが、ここから城まではそれなりに急な坂道を10分ほど歩かねばなりませんので、中腹の駐車場を利用するのがオススメです。

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山の中腹には駐車場が設けられている

築城は1300年代にまで遡る

 吉田郡山城の正確な築城年は分かっていません。しかし、安芸毛利氏の祖である毛利時親(?~1341)が1336年に地頭として入国しており、その曾孫である毛利元春(1323~?)が1352年に「吉田城に籠った」との記述があるため、1300年代半ばに毛利氏によって建てられたと推測されています。

 それから200年間、どこにでもいる一地方領主として安芸を治めてきた毛利氏。しかし毛利元就の出現により、一気に戦国大名へと脱皮していきました。彼は吉田郡山城を大大名の居城に相応しく拡張・城塞化し、1540~41年には山陰の雄として名高い尼子詮久(後の晴久、1514~1561)が率いる3万の大軍を寡兵で退けています。

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城の麓に置かれた毛利元就像

 ただ、毛利元就の息子である毛利隆元(1523~1563)、孫の毛利輝元(1553~1625)と世代を経て、毛利氏が豊臣秀吉(1537~1598)に従属すると、戦時を意識した山間部の山城は国内統治には不適当であることが浮き彫りとなりました。

 1591年、毛利輝元によって広島城がほぼ完成すると、戦国時代を通して担ってきた「毛利氏の本拠」「戦のための城」という役割を終えた吉田郡山城は事実上の廃城となります。こうした時勢の変化による居城の移転・廃城は、出雲において月山富田城が棄却され、本拠地が交通の便の良い松江城に移った事情と全く同じです。

 最終的には1615年、江戸幕府が出した一国一城令により吉田郡山城は取り壊されます。そして、1637年に起こった島原の乱の影響で、城郭としての機能を完全に失わせるため、石垣や堀なども徹底して棄却されることとなったのです。

毛利氏の始祖は「大化の改新」のあの人?

 余談ですが、毛利元就の直系の先祖である毛利時親の曾祖父は、源頼朝(1147~1199)の側近として鎌倉幕府創建に大きく貢献した大江広元(1148~1225)です。彼の出自には諸説あるため、断定はできませんが、平安時代末期の公卿である藤原光能(1132~1183)が大江広元の父だとする書物が残っています。

 藤原光能の名を知っている方は皆無でしょうが、彼の系譜を辿ると、平安時代に栄華を極めた藤原道長(966~1028)に至ります。ということは、更に遡れば「大化の改新」の中心人物として有名な藤原鎌足(中臣鎌足、614~669)に到達するわけですね。

 したがって、毛利氏の始祖は中臣鎌足であった可能性も否めません。彼が活躍したのは、当ブログでも紹介した古代山城、鬼ノ城が建てられる契機となった「白村江の戦い」と全くの同時代。それほどの古代から続く名家の血が毛利氏にまで流れていたと考えると、ロマンが広がります。 今度は反対に、毛利元就の子孫に目を向けみましょう。孫の毛利輝元は関ヶ原の戦いでこそ西軍の総大将となって敗れたものの、何とか改易は免れ、長州藩の藩祖となります。

 毛利輝元の子孫は幕末まで長州を治め、毛利敬親(1819~1871)の時代には討幕の中心勢力として多くの人材を輩出。明治維新を迎えた後も、毛利氏は華族として代々貴族院議員となり、現代までその血脈を繋いでいます。

 古代から現代まで続く毛利氏。彼らが歴史の表舞台へと躍り出る最大のきっかけとなった毛利元就の勇躍に思いを馳せながら、吉田郡山城を散策してみてはいかがでしょうか。

吉田郡山城まとめ                

①築城者
毛利時親か?

②築城年
1300年代半ば頃か?

③住所
〒731-0501 広島県安芸高田市吉田町吉田

④電話番号
0826-42-0070(安芸高田市歴史民族博物館)

⑤営業時間
随時登城可能ですが、夜間は事実上困難です。

⑥定休日
年中無休

⑦登閣料
なし

⑧アクセス
・中国自動車道 高田ICから約10分

・広島バスセンターから吉田出張所行き(約1時間30分)
※安芸高田市役所前下車で安芸高田市歴史民族博物館まで徒歩5分

・JR芸備線向原駅または吉田口駅からタクシーにて15分
※徒歩では1時間以上かかります

⑨駐車場
大通院谷川砂防公園駐車場:8台
吉田郡山城入口付近駐車場:6台

⑩日本100名城スタンプ設置場所
安芸高田市 歴史民俗博物館
※営業時間などの詳細はこちらのサイトを参照ください