アウシュヴィッツ強制収容所長ルドルフ・ヘスの数奇な生涯

ホロコーストを加害者側から紐解く

 世界史に詳しくなくとも、「アウシュヴィッツ」の名に全く聞き覚えが無いという方は少数派でしょう。第2次世界大戦中、ナチス・ドイツがユダヤ人に対して行った大量虐殺(ホロコースト)において、中心的役割を果たしたアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所(以下アウシュヴィッツ収容所)では、150万人もの人々が犠牲となりました。

 こうした過ちを二度と繰り返すことのないよう、歴史と向き合い、未来を創っていくため、アウシュヴィッツ収容所は言わば「負の遺産」として世界遺産にも登録されています。ポーランド第3の都市クラクフから南西約60km、オシフィエンチムに残されている同収容所には、今なお訪れる人が絶えません。f:id:eichan99418:20190829231328j:plain

 一体、なぜこのような虐殺が行われるに至ったのか。その過程を加害者の側から紐解く上で、講談社学術文庫より出ている『アウシュヴィッツ収容所』(片岡啓治訳)が参考になります。

 自伝的な手記である本書の作者は、ルドルフ・フランツ・フェルディナント・ヘス(Rudolf Franz Ferdinand Höß、1900~1947)。アウシュヴィッツ収容所の初代所長として、その開設・運営に奔走し、ユダヤ人の大量虐殺を現場で指揮した男です。

 ちなみに、同じく「ルドルフ・ヘス」の名で知られるナチスの副総統ルドルフ・ヴァルター・リヒャルト・ヘス(Rudolf Walter Richard Heß、1894~1987)とは別人ですので、ご注意ください。

アウシュヴィッツ収容所 (講談社学術文庫)

アウシュヴィッツ収容所 (講談社学術文庫)

『アウシュヴィッツ収容所』の目次

第一部 わが魂の告白
1 幼い一匹狼
2 戦争に憧れて
3 義勇軍志願
4 獄窓の中で
5 母なる大地へ
6 ナチ親衛隊に帰る
7 非国民との闘い
8 アウシュヴィッツ所長となる
9 私は人事を尽した
10  闘い破れて

第二部 ユダヤ人と私たち
1 ユダヤ人をどう処理したか
2 ヒムラー隊長と私 

嘘をつく理由は無い

 ホロコースト関連の議論をする上で避けては通れないのが、哲学者ハンナ・アレント(1906~1975)の提唱した「凡庸なる悪」という概念です。彼女は「悪は悪人が生み出すのではなく、思考停止の凡人が作る」との言葉を残しています。

 それを象徴するように、ヘスの手記からは、彼がならず者や極悪人どころか、むしろ謹厳実直な仕事人間であるとの印象を受けました。自身の人生について可能な限り正確に語るだけでなく、出会った人々、収容所の抑留者たちを透徹した観察力で分析し、描写しています。

 ヘスはこの手記を、戦後に囚われの身となった状態で書いていますので、自身を良く見せたり、弁明したりする意図で書いた部分も多いのではないかと、信憑性を疑う方もいるかもしれません。

 しかし、この手記を書いている時点で、既にヘスは処刑が決まっており、もはや取り繕ったところで意味の無い状況でした。もちろん、勘違いや思い込みの類はありますが、彼自身が情状酌量を狙い、意図して虚偽の内容を書いていることはないでしょう。

 ちなみに本書では、ヘスの記述に対して歴史的事実と突き合わせての注釈が適宜施されています。その中で、一般読者にも状況が伝わりやすいように情報が補足されている他、ヘスの思い込みと思われる部分には、きちんと根拠を示した上で指摘がなされていますので、ある程度の客観性は担保されていると言えます。

ナチスを支えた真面目な人々

 ヘスに止まらず、ナチス・ドイツで残虐行為に関わった中には、真面目な人柄で通っていた人物も数多くおります。言わずと知れたナチス総統アドルフ・ヒトラー(1889~1945)の右腕ハインリヒ・ヒムラー(1900~1945)や、アウシュヴィッツ収容所へのユダヤ人大量移送を指揮したアドルフ・アイヒマン(1906~1962)はその典型です。

 アイヒマンなど、アレントの「凡庸なる悪」を科学的に立証した「アイヒマン・テスト」にその名が冠されているほど。この実験では「悪に陥ることなどありえない」と自他共に認めるような「善良な市民」が、性別、人種、宗教、国籍、職業、学歴などに関係無く、簡単に殺人を犯しうることが証明されました。

 実験の内容や意義について具体的に説明していると長くなりますので、ご興味のある方は、下記の詳細記事をご覧ください。

ヘスは「凡庸なる悪」なのか

 ただ、今回議論の対象となっているヘス自身が、アレントの説く「凡庸なる悪」の典型であったのかと問われると、疑問が残ります。なぜなら、彼の略歴を辿る限り、とても「凡庸な小市民」であったとは言えないエピソ-ドに溢れているからです。

 ヘスは厳格な父の下、聖職者になるための教育を受けて育ちます。しかし、軍人に憧れていた彼は、15歳にして自ら好んで第1次世界大戦(1914~1918)へ従軍。戦争という極限状態の中、初めての殺人を経験しました。

 帰国したヘスは1923年、共産主義に加担した人物を虐殺する場に立ち会い、殺人罪で懲役10年を食らいます。最終的には特別大赦で釈放されましたが、それまでの6年間は刑務所で労働に勤しみました。

 ヘスは手記を書いている時点でも「今なお彼を粛清すべきであったとの考えは変わらない」とハッキリ述べており、殺人に対する反省は全くしていません。ただ、その受刑態度は真面目そのもので、看守から勤勉な働きを認められるほどの模範囚だったそうです。

 釈放後、元より関心のあった農業への道を模索していたヘスですが、所属した右翼系の農業団体にてヒムラーの知遇を得たことで、1933年にナチス親衛隊(SS)へ加入することとなりました。ちなみに彼は、逮捕前である1922年の時点で、既にナチスには入党しています。

 ヘスはダッハウ強制収容所に着任し、順調に出世すると、ザクセンハウゼン強制収容所副所長を経て、アウシュヴィッツ強制収容所の所長となるに至ります。そもそも強制収容所の管理指導者として配属されるきっかけとなったのは、彼自身が受刑者として刑務所で抑留されていた体験を買われてのことだそうです。

 この数奇な人生を見るに、ヘスが当時の「一般的なドイツ国民」であったとは言い難いでしょう。その点、アレントの指摘する「凡庸なる人々」という概念とは別に、ヘス個人の心性についても考える必要がありそうです。

自己放棄が大虐殺を引き起こした

 とはいえ、ヘスも「凡庸なる人々」も、権威に対して思考停止に陥っていたという点では共通しています。

「自分を慕ってくる人々、特に子どもたちを冷酷に殺害せねばならないことには心が痛んだ」「抑留者に同情を感じてしまうので、収容所勤務から配属を変えてもらおうと何度も思った」といった趣旨の記載が手記の中に見受けられることから、ヘスにも人間的な感情があったことは確かです。また「ユダヤ人を憎んだことはない」とも明言しています。

 しかし、実際に彼が行ったことは、前代未聞の大虐殺でした。何の罪も無いまま無条件に運ばれてくるユダヤ人たちを前に、法治国家の崩壊を悟りながらも、「枢要なることはただ1つ、命令である」「命令というだけで、虐殺措置が正しいことであるように思われた」との考えに帰結したのです。

 ここには、ヘスの完全なる自己放棄があります。それほどナチスの洗脳が凄まじかったとも言えますが、彼が元々厳格な家庭の出身で、幼少期から「目上の者の言うことは絶対」とひたすら刷り込まれてきた影響も小さくはないでしょう。

 どのような現象が起こる際にも、原因がただ1つということは、なかなかありません。ヘスの場合も、個人的要素と社会的要素が複合的に組み合わさり、自己放棄がもたらされたと考えられます。

 社会的要素を見る上では、ドイツの社会心理学者エーリッヒ・フロム(1900~1980)の著書『自由からの逃走』が有力な手掛かりとなるでしょう。

 これは「人々が選択の自由を手に入れた結果、どのような進路を取るべきか自分自身で判断できなくなり、結局は自由を放棄して、方向性を示してくれる人物や権力に安易に従うようになる」という逆説的な精神構造を説いたもの。自由「への」逃走ではなく、自由「からの」逃走というタイトルが示唆的です。

自由からの逃走 新版

自由からの逃走 新版

前代未聞の殺人工場を真剣に考案

 本書では、有能か否か以前に、善悪を自らの力で考える意志を持ち続けることがいかに重要であるかを痛感させられます。

 ヘスは、資源、金、人材、何もかもが乏しい中、アウシュヴィッツ収容所の構築を命じられました。これに真摯に取り組む彼の姿はまるで、経営資源の無い中で東奔西走する、創業期ベンチャー企業の事業部長さながらです。心あるリーダーに率いられれば、きっと有能な企業戦士や官僚になったことでしょう。

 しかし、彼が命じられたのは、ユダヤ人の抹殺でした。これを真面目に受けたヘスは、最も効率良く人間を大量虐殺できる装置を真剣に考えます。その結果として、殺害における毒ガスの使用や、ガス室から焼却処分に至る動線の簡素化に取り組み、アウシュヴィッツという前代未聞の殺人工場を現実のものとしてしまったのです。

 アイヒマンも「1人の死は悲劇だが、100万人の死は統計に過ぎない」と発言したように、ヘスも「人間的な感情を封殺せねばならない」と自身に言い聞かせ、ゆでガエルのように感覚を失っていきました。

 世界史上、大量殺戮の例は少なくありません。古代中国では、秦の将軍である白起(?~B.C.257)が、兵糧不足のため40万人もの捕虜を生き埋めにしました。楚の将軍として秦を滅ぼした項羽(B.C.232~B.C.202)も、既に降伏した秦兵20万人を殺害しています。また現代でも、カンボジアのポル・ポト(1928~1998)政権下では、100~200万人が虐殺されたと言われます。

 ただ、そうした古今東西の事例を踏まえてもなお、ナチス・ドイツの強制収容所ほど機械的に、まるで工場でモノを作るように淡々と大量殺戮が行われた例は類を見ません。

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虐殺か強制労働か

 手記の中では、アウシュヴィッツ収容所の運営に際して、上から降りて来る命令の錯綜具合にヘスが翻弄される様子も描かれています。具体的には、ヘスは国家保安本部経済行政本部という2つの命令系統の板挟みになる立ち位置にいました。

 国家保安本部の最優先事項は、全てのユダヤ人を地上から根絶することです。反ユダヤ主義というイデオロギーを現実世界に落とし込むのが仕事ですので、「移送されてきたユダヤ人は即殺害せよ」との指令を飛ばします。

 一方、経済行政本部は戦争遂行を任務としていました。したがって、「軍需産業の労働力として、可能な限りユダヤ人を使い倒すべし」との命令を出してきます。

 最終的にはユダヤ人を選別する方法が取られました。働くのが難しい老人、女性、子どもはガス室で殺害され、労働力として期待できる若い男性は抑留されて強制的に働かされたのです。

 ちなみに、ヘスは中央政府に対して収容所における抑留者の待遇改善を何度も訴えていますが、これは決して人道的見地からではありませんでした。出来る限り抑留者を長く働かせられる環境を構築した方が合理的であるとの考えによるものです。

 また、ヘスは「ユダヤ人の虐殺はすべきでなかった」とも語っています。しかし、あくまでそれは「ドイツの将来のためにならないから」であって、決して人道的理由によるものではないことを明記しておかねばならないでしょう。

まるでブラック企業の職場

 ヘスが描く中央政府とアウシュヴィッツ収容所のやり取りからは、あたかもワンマン社長が君臨するブラック企業のような印象も受けました。「社長(ヒトラー)の思い付きを、専務(ヒムラー)が受け、事業部長(ヘス)に命令を下す」という構造。ただ、400ページ以上ある手記の中でも、ヒトラーは「総統」の呼び名で稀に登場する程度で、ヘスにとって一番のボスは何と言ってもヒムラーでした。

 ヘスのヒムラー評は「良い報告ばかり聞きたがり、問題を直視しない」「言うことがコロコロ変わる」というもの。彼がヒムラーとのやり取りについて紹介し、それに対して愚痴をこぼす様子は、どこの企業にもいそうな上司と部下にしか見えません。

 ただ、多少の文句を言いながらも、ヘスが命令に対する異常なまでの服従を自らに強いていたことで、諸々の無理難題が突破され、アウシュヴィッツは殺人工場と化したのです。

ナチスが作った人間の最高傑作

 本書でヘスは、自身の体験を丁寧かつ正確に描きました。しかし、あらゆる現象や人々を細かく観察して描写する彼の態度は傍観者そのものです。

 目の前で人々が苦しみ、死んでいっているというのに、加害者としてそれに関わっているはずのヘスは、淡々とした口調でその「現象」を説明しており、そこには人間らしい感情の起伏など微塵も感じられません。

 これこそ、ナチスが作った人間の最高傑作なのです。人は思考が停止した時、無感動になり、どのような命令にも違和感を覚えないまま服従してしまう。僕らはこの歴史をよく学んで肝に銘じ、同じ惨禍が繰り返されないように注意を払わなければなりません。