ナチス・ドイツによってホロコーストが起きた過程を徹底解剖

ホロコーストを紐解く

 2020年1月27日は、アウシュヴィッツ強制収容所が解放されて75年という節目になります。第2次世界大戦(1939~1945)の戦時下、ナチス・ドイツがユダヤ人に対して行った大量虐殺(ホロコースト)の代名詞として、アウシュヴィッツの名を一度も聞いたことがないという方は少ないでしょう。f:id:eichan99418:20190829231328j:plain

 しかし、ホロコーストはアウシュヴィッツのみで行われていたわけではありません。その他にもユダヤ人の虐殺を主目的とした「絶滅収容所」はいくつも存在し、彼らに強制労働を強いていた強制収容所全体となると、到底数えきれないほどです。

 実際、ラインハルト作戦においてベウジェツ、ソビブル、トレブリンカという3つの絶滅収容所で亡くなった犠牲者は175万人と、アウシュヴィッツ絶滅収容所の犠牲者数110万人を大きく上回っています。

 なぜホロコーストは起きてしまったのか。従来は「アドルフ・ヒトラー(1889~1945)を筆頭とするナチス・ドイツ上層部が狂気に走った結果、突如として虐殺命令を下した」と認識されることも多々ありましたが、現在はそのように単純ではなかったことが分かっています。

 そこで今回は、ナチス・ドイツがホロコーストへと至った過程について、反ユダヤ主義の歴史的背景、ナチスがとった政策の変遷などを分かりやすく紐解いた『ホロコースト ナチスによるユダヤ人大量殺戮の全貌』(芝健介著、中公新書)を紹介します。

 お時間の無い方は、最後の「まとめ」に本記事の要点を記載しておきましたので、そちらをどうぞ!

ホロコースト―ナチスによるユダヤ人大量殺戮の全貌 (中公新書)

ホロコースト―ナチスによるユダヤ人大量殺戮の全貌 (中公新書)

  • 作者:芝 健介
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2008/04/01
  • メディア: 新書
『ホロコースト』の目次

序 章 反ユダヤ主義の背景 宗教から「人種」へ
第Ⅰ章 ヒトラー政権と迫害の開始 「追放」の模索
第Ⅱ章 ポーランド侵攻 追放から隔離へ
第Ⅲ章 「ゲットー化」政策 集住・隔離の限界
第Ⅳ章 ソ連侵攻と行動部隊 大量射殺
第Ⅴ章 「最終解決」の帰結 絶滅収容所への道
第Ⅵ章 絶滅収容所 ガスによる計画的大量殺戮
終 章 ホロコーストと歴史学

ユダヤ人の定義とは何か?

 本来「ユダヤ人」とは「ユダヤ教を信仰している人」ですから、宗教に基づく呼び名であり、決して人種や国籍を表しているわけではありません。したがって、日本国籍の黄色人種でも、南アフリカ国籍の黒人でも、ユダヤ教信者であればユダヤ人となります。

 反対に、たとえ両親がユダヤ教信者であっても、自分自身がユダヤ教を信仰していなければ、ユダヤ人ではないことになるはずです。

 一方、世間では「ユダヤ人」という言葉が人種であるかのように捉えられていることも少なくありません。実際、20世紀には「ユダヤ人」の定義はかなり曖昧なものとなっていました。

 ナチス・ドイツはユダヤ人から次々と公民権を奪っていきましたが、ユダヤ人を迫害するためには、まずユダヤ人を定義しなければなりません。そこで1935年、ナチス・ドイツ政権下で発布されたニュルンベルク人種法では、下記のような定義がなされました。

①祖父母のうち3人以上がユダヤ教信者
本人の信仰を問わずユダヤ人

②祖父母のうち2人がユダヤ教信者
2分の1ユダヤ人→条件によってユダヤ人かドイツ人か判断

③祖父母のうち1人がユダヤ教信者
4分の1ユダヤ人→ドイツ人

 いずれにせよ、ナチス・ドイツ政権下において「ユダヤ人」は「ユダヤ教を信仰している人」ではなく、血縁関係によって規定されることとなったのです。

ユダヤ人の歴史は迫害の歴史

 ユダヤ人に対する迫害を行ったのは、ナチス・ドイツが最初ではありません。むしろ、ユダヤ人の歴史は「迫害の歴史」と言っても過言では無いのです。

 古来、まだ「ユダヤ人=ユダヤ教信者」であった頃から、彼らは苦難の歴史を歩んできました。紀元前17世紀頃、移住先の古代エジプトで待っていた奴隷生活と、指導者モーセによる「出エジプト」の話は旧約聖書の中でも有名です。f:id:eichan99418:20200209205640j:plain

 その後、紀元前10世紀頃、ユダヤ人はパレスチナの地に自らの国家であるイスラエル王国を建国します。しかし、B.C.930年頃には北のイスラエル王国南のユダ王国に分裂。北のイスラエル王国はB.C.721年にアッシリアによって滅ぼされ、多くのユダヤ人が捕虜とされ、残る人々も各地に離散しました。

 そして、南のユダ王国もB.C.587年には新バビロニアの侵攻を受けて滅亡。ネブカドネザル2世(B.C.634~B.C.562)により数回に渡って行われたバビロン捕囚で、やはり多くの民が連れ去られます。

 ちなみに、この時に「ユダ王国の遺民」として彼らは「ユダヤ人」と呼ばれるようになりました。便宜上、統一してユダヤ人と表記してしまいましたが、彼らは出エジプトまではヘブライ人、パレスチナ定住後はイスラエル人と呼ばれていたのです。

 こうしたユダヤ人の歴史については、下記の記事で詳しく紹介していますので、ご興味があればご一読ください。

キリスト殺しの罪を着せられたユダヤ人

 アケメネス朝ペルシアによって新バビロニア王国が滅ぼされ、エルサレムに帰還した後も、ユダヤ人たちは古代マケドニア王国、セレウコス朝シリア、そしてローマ帝国の支配下に置かれることとなります。

 人類のほぼ100%が多神教を信仰していた古代において、頑なに一神教を守り続けるユダヤ人は、周囲の人々と軋轢を生むことも多く、これがしばしば争いの火種となりました。66年、ついにユダヤ人はローマ帝国に対して大規模な反乱を起こしますが、7年をかけて鎮圧され、厳しい弾圧に晒される結果を招きました。

 こうした中、当初はユダヤ人と同じく弾圧の対象とされることの多かったキリスト教が爆発的な広がりを見せ、ローマ帝国の国教となるなど、ヨーロッパ世界の根幹とも言える価値観の1つとなりました。

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 すると、イエス・キリスト(B.C.4~30)を救世主と認めなかったユダヤ人は、「キリスト殺し」の罪を背負っているとされ、迫害の対象とされたのです。彼らは土地の所有商工業ギルドへの参画を禁じられ、農業、商工業に携わる道を閉ざされました。

 そんな彼らが就くことのできたのは、高利貸し、行商人、芸人といった職業のみでした。ユダヤ人が金融や宝石商、画商といった分野で活躍することとなった背景には、こうした歴史的な事情があるのです。

 もちろん、このような逆境の中でも自らの才覚でのし上がり、富裕層となるユダヤ人も出てきました。しかし、それはそれで周囲からの妬みを買い、迫害はますます酷くなっていったのです。こうした2000年の長きに渡るユダヤ人迫害の歴史が、ヨーロッパには横たわっていました。

古くから欧州に根付く反ユダヤ主義

 このような歴史的背景を踏まえ、ヨーロッパに反ユダヤ主義の素地があったことを考えると、ナチス・ドイツが掲げたユダヤ人に対する政策は、ヒトラーが突如として狂気に走ったために行われたものではないことが分かります。

 むしろ、ヒトラーは世間に蔓延していた反ユダヤ主義を、ナチスの支持率向上の道具として巧妙かつ打算的に利用した可能性も高いのです。自国民をまとめるため、国外に共通の敵を作るという手法は、現代においてもよく取られますよね。

 ただ、ヒトラーの著書『我が闘争』や彼の演説の中には、『シオン賢者の議定書』から影響を受けたと思われる箇所があるのも事実です。この書は「ユダヤ人が世界の支配を企んでいる」という陰謀論者のバイブル的存在で、「世界史上最悪の偽書」とも言われています。もちろん、ヒトラーが反ユダヤ主義者の支持を得るため、この書を故意に持ち出したという可能性もありますが…。

【定本】シオンの議定書

【定本】シオンの議定書

当初は国外追放が政策の柱だった

 それでも、ナチス・ドイツの掲げた反ユダヤ主義が国民からの支持を得るための打算的政策なのであれば、ユダヤ人を虐殺までする必要はありませんよね。まさにその通りで、ナチス・ドイツがユダヤ人に対して行った政策は、元々「東部への追放」でした。ドイツ領内からユダヤ人を強制退去させようとしたのです。

 しかし、ここで想定外の事態が生じます。1939年9月1日、ナチス・ドイツはポーランドに侵攻。ここに第2次世界大戦が始まったわけですが、わずか1カ月で降伏したポーランドの占領地域には、210万人ものユダヤ人が住んでいたのです。

 さらに、ナチス・ドイツは次々とヨーロッパ諸国を侵略して領土を拡大。1933年時点でドイツ国内に在住していたユダヤ人は56万人でしたが、これが数百万人という桁違いの規模になり、追放政策は破綻することとなりました。

 1940年6月にパリを占領し、フランスを降伏させた際には、ユダヤ人を仏領マダガスカルへと移住させる計画さえ真剣に議論されました。しかし、イギリス海軍が制海権を握っていたことから、この案もお蔵入りとなります。

ゲットー内で間接的虐殺に晒される

 こうして喫緊の「追放」政策が難しくなったナチス・ドイツは、広大なソ連領へユダヤ人を追い込もうと考えました。そして、それを円滑に行うため、特にポーランド領内の大都市にユダヤ人を集住させることにしたのです。これが世にいう「ゲットー化」政策の始まりでした。f:id:eichan99418:20200209205930j:plain

 この時点では、まだユダヤ人の「絶滅」は計画されていませんでした。ただ、ゲットー内の衛生環境の悪さから病気が蔓延し、極限以下の食料しか配給されないため飢餓で多数の死者が出るなど、ユダヤ人は間接的な虐殺に晒されている状況と言えました。

 この様相を目にしたナチス・ドイツ側の幹部から「病気と飢餓によって死なせるくらいならば、いっそ殺してしまった方が人間的な解決ではないか」と示唆する書簡が上層部に送られたほど。そして、最終的には「絶滅」という解決法が採用されることとなるのです。

独ソ戦を機に無差別殺戮が始まる

 こうした中、1941年6月、ナチス・ドイツはソ連に侵攻し、独ソ戦の戦端が開かれました。これを契機に、それまで「絶滅」までは行われていなかったユダヤ人の無差別虐殺が始まります。

 ナチス・ドイツは、あまりに多くのユダヤ人を領内に抱えたため、彼らの追放、集住といった政策は限界に達していました。そこに今度はソ連領内のユダヤ人まで加わり、もはや打つ手が無くなってしまったのです。

 独ソ戦の膠着によってソ連領へのユダヤ人追放も夢と消え、ついにナチス・ドイツはユダヤ人を計画的に殺害していく方向へと傾きました。これまでゲットーに集住させていたユダヤ人たちは、貨車に満載され、東部に建てられた絶滅収容所へと運ばれることとなったのです。

 殺害の方法も変化していきました。当初は銃殺であったものが、兵士たちの精神的ダメージの大きさや効率的観点から、一度に大人数を殺害して焼却まで可能なガス殺へと切り替わっていったのです。

イデオロギー vs 経済的合理性

 1942年1月には、ユダヤ人問題の「最終解決」を議論する場としてヴァンゼー会議が開かれました。ここではユダヤ人を「労働可能」と「労働不能」に分け、前者には奴隷的労働による苛酷な搾取、後者にはガスによる即刻殺害を行うことが決定しました。

 この決定からは、イデオロギー経済的合理性の狭間に立つナチス・ドイツの一貫性の無さを見て取ることができます。

 反ユダヤ主義というイデオロギーを優先するならば、労働の可否に関わらず、ユダヤ人は絶滅させなければならないはずです。しかし、独ソ戦の長期化で労働力不足が叫ばれる中、ユダヤ人にも可能な限り生産の一端を担わせようという実用主義が顔を出しています。

 アウシュヴィッツ収容所の初代所長ルドルフ・ヘス(1900~1947)も、自伝的な手記『アウシュヴィッツ収容所』(片岡啓治訳、講談社学術文庫)の中で、「ユダヤ人たちにしっかり働いてもらうべく、衛生状態を改善しようとした」という趣旨の記述をしています。

能力よりも考え方が重要

 いずれにせよ、ゲットーにおける病死、餓死、強制労働による衰弱死といった間接的な虐殺、銃殺、ガス殺といった直接的な大量殺戮により、600万人ものユダヤ人の命が奪われたという事実は揺らぎません。

 ユダヤ人の大量移送と殲滅を実現していたのは、ナチス・ドイツの誇る優秀な官僚たちです。彼らは「ユダヤ人問題の最終解決」という命令に対して忠実に従い、一生懸命に効率化を追求して、様々な方法を取りました。そしてその結果、人類史上最悪の大虐殺を引き起こしてしまったのです。

 ここで僕は、京セラの創業者として有名な稲盛和夫(1932~)の説く「人生・仕事の結果=考え方×熱意×能力」という方程式を思い起こしました。

 個々人の能力を数値化できるとして、頭の回転や記憶力、体力には大小こそあれ、マイナスはありえません。熱意も同じ。しかし、そうした能力や熱意の使い方に関わる「考え方」の部分にはマイナスがあり得るのです。

 能力の高い人が熱意を持って、社会的にマイナスをもたらすことに全力で取り組むと、とんでもない惨事を引き起こしてしまう。だからこそ、教育においても能力の前にまず考え方が重要なのでしょう。

まとめ            

・ユダヤ人の定義は非常に曖昧なものだった
・ヨーロッパには元より反ユダヤ主義の素地があった
・ホロコーストは独裁者ヒトラー個人の考えによるものではない
・アウシュヴィッツよりも多数が虐殺されたラインハルト作戦
・追放→集住→銃殺→計画的ガス殺と推移したホロコースト
・イデオロギー重視の殲滅 vs 経済的合理性の強制労働
・能力よりも考え方が重要