ローマ人の物語(12)/カエサル、帝政ローマへの布石を打つ

カエサルによる国家改造を描く

 歴史作家、塩野七生による大長編『ローマ人の物語』(新潮文庫)全43巻を紹介していくこのコーナー。前巻ではガイウス・ユリウス・カエサル(B.C.100~B.C.44)が、かつての盟友グナエウス・ポンペイウス(B.C.106~B.C.48)との決戦を制し、完全にローマ世界の主導権を握りました。 今回ご紹介する『ローマ人の物語(12)ユリウス・カエサル ルビコン以後(中)』(新潮文庫)では、カエサルが元老院派の残党を一掃し、悲願の国家改造を成していく様子を描きます。

ローマ人の物語 (12) ユリウス・カエサル ルビコン以後(中) (新潮文庫)

ローマ人の物語 (12) ユリウス・カエサル ルビコン以後(中) (新潮文庫)

来た、見た、勝った

 元老院派の勢力に担がれたポンペイウスをファルサルスの野で打ち破ったカエサルは、エジプトにおける内紛を平定。クレオパトラ7世(B.C.69~B.C.30)を味方に付けて、同国におけるローマの覇権を確立しました。

 ただ、これでもカエサルの遠征は終わりません。まずは、黒海南岸に位置するポントス王国のファルナケス2世(?~B.C.47)ゼラの地で戦い、これを倒します。

 ファルナケス2世は、かつて元老院派の首魁であったルキウス・コルネリウス・スッラ(B.C.138~B.C.78)らの率いるローマ軍と3度に渡って戦いを繰り広げ、最終的にはポンペイウスに破れたミトリダテス6世(B.C.132~B.C.63)の息子。ローマ軍と戦ってきた父を自害に追い込んで王となった彼ですが、ローマ内戦の隙を突いて領土の拡大を図ったところ、カエサルによって制された形です。 このゼラの戦いにおいて、カエサルが元老院に送った勝利報告「来た、見た、勝った」は有名ですね。ラテン語原文の「Veni, vidi, vici.」は現在でも、世界最大のたばこメーカーである米フィリップモリス社のエンブレムに一部ながら使われています。

 同社の製品として、最近は電子タバコのIQOSが増えてきていますが、気になる方は「マールボロ」(紙巻たばこの方)の箱に描かれた紋章を見てみてください。

スキピオ、カトーら大物も果てる

 さて、ゼラの戦いにおける相手は言わば「外敵」でしたが、次にカエサルを待ち受けていたのは、元老院派の残党たちでした。

 具体的には、スキピオ・アフリカヌス(B.C.236~B.C.183)の子孫スキピオ・ナシカ(B.C.100~B.C.46)、大カトー(B.C.234~B.C.149)の曾孫にあたる小カトー(B.C.95~B.C.46)、カエサルの右腕としてガリア戦役を戦い抜きながら、内戦に至って決別したティトゥス・ラビエヌス(B.C.100~B.C.45)、そしてポンペイウスの遺児たちという具合です。

 カルタゴとのポエニ戦争でハンニバル・バルカ(B.C.247~B.C.183)を破り、救国の英雄とされたのがスキピオ・アフリカヌスならば、その力の増大を警戒して対立を深め、最終的には彼を失脚に追い込んだのが大カトーです。

 約150年前に直系の先祖同士が一番の仇敵であったスキピオ・ナシカと小カトーが、時を超えて元老院派として協力し合っているのを見ると、歴史とは何と数奇なものかと嘆息させられます。

 彼ら元老院派が居座る北アフリカに乗り込んだカエサルは、タプススの戦い、それに続くウティカ包囲戦でこれを撃滅。スキピオ・ナシカ、小カトーはここで果てることとなりました。

元老院派の軍事力を壊滅

 北アフリカで敗北を喫した元老院派は、ヒスパニア(現スペイン)に逃れ、ここで戦線を立て直します。ただ、もはや残っている武将はラビエヌスとポンペイウスの遺児兄弟のみでした。

 両軍はムンダの戦いにて雌雄を決し、激戦の末にカエサルが勝利。元老院派は3万人もの戦死者を出し、カエサルのかつての腹心ラビエヌスは戦死、ポンペイウスの長男グナエウス・ポンペイウス・ミノル(B.C.75~B.C.45)もすぐに捕らえられて殺害されました。

 ポンペイウスの次男セクストゥス・ポンペイウス(?~B.C.35)は何とか山間部に落ち延び、その後10年に渡ってローマ軍に抵抗を試みることとなりますが、もはや元老院派の軍事力は壊滅したと言って良いでしょう。f:id:eichan99418:20190930004443j:plain

帝政ローマの事実上の創始者

 こうして内外の敵を蹴散らしたカエサルは、ついに終身独裁官となり、ローマの国政を掌握します。元々彼は「元老院による少数指導体制は機能不全に陥っている」という持論の持ち主であり、権力の一点集中による統治の効率化と強化を図ろうと考えていました。

 カエサルは、権力の集中によって広大な地中海世界の統治機構を作り上げました。これが後の帝政ローマの青写真になったわけですから、彼が「帝政ローマの事実上の創始者」と言われるのも納得です。

 カエサルの行った国家改造は、あらゆる領域に及びました。彼は政治機構、金融、行政、司法、属州統治といった主要な分野はもちろん、首都の交通渋滞解消や清掃促進といったものにまで手を付けています。解放奴隷に対して公職への道を開いたのもカエサルです。

パクス・ロマーナの礎を築く

 それまでの太陰暦を廃止し、太陽暦を採用したのも有名ですね。このいわゆる「ユリウス暦」は、B.C.45年1月1日から使用され、現在のグレゴリウス暦が制定される1582年10月15日まで、1600年以上に渡ってヨーロッパ中の「時」を支配することになります。

 カエサルの政策でも特に興味深いのは「教師と医師にはローマ市民権を与える」とした点です。ローマ市民権は、税制などあらゆる面で優遇措置が得られる権利でした。

 教育と医療の重要性を深く認識していたカエサルは、それらの職業従事者を増やす施策として、法律などを通した「無理強い」をするのではなく、それらの職業に就きたくなるようなインセンティブを人々に与えたのです。これこそ、ソフトパワーを駆使した一流の政策と言えるでしょう。

 また、彼が手掛けた首都の再開発は大胆極まりないものでした。王政ローマ時代の紀元前6世紀、第6代目の王であったセルウィウス・トゥリウス(?~B.C.535)が建て、ポエニ戦争中は名将ハンニバルからローマを守った「セルウィウス城壁」を撤去してしまったのです。

 理由は「市街地の再開発を行う上で邪魔だから」。ただ、この施策には「もはや外敵が首都ローマに迫ることなどありえない」というカエサルの自信も表していました。彼はローマと他国との国境線に軍団を配置し、外敵は防衛線において確実に打ち破るシステムを構築。この安全保障体制が「パクス・ロマーナ(ローマの平和)」への礎となります。

 しかし、こうした権力の一点集中と急激な国家改造を良く思わない人々もいました。カエサルの手で元老院派は撃滅され、内戦は終結したかに見えましたが、不穏分子はまだ元老院内に残っていたのです。ローマに真の平和が訪れるまでは、まだあと15年ほど待たねばならないのでした…。

次巻へつづく)