ローマ人の物語(14)/アウグストゥス、巧妙なる帝政移行

アウグストゥスの治世前期を描く

 歴史作家、塩野七生による大長編『ローマ人の物語』(新潮文庫)全43巻を紹介していくこのコーナー。前巻では、ガイウス・ユリウス・カエサル(B.C.100~B.C.44)の暗殺によって再燃した内乱をオクタヴィアヌス(B.C.63~14)が平定し、地中海世界に再び安寧を取り戻すまでを描きました。

 これにより、ポエニ戦争(B.C.264~B.C.146)終結直後のB.C.133年から100年間に渡って続いてきた「内乱の一世紀」がついに終結。オクタヴィアヌスはわずか33歳にして、地中海世界を統べるローマ唯一の絶対権力者に上り詰めます。

 今回ご紹介する『ローマ人の物語(14)パクス・ロマーナ(上)』(新潮文庫)では、地中海世界の秩序を再興し、「パクス・ロマーナ(ローマの平和)」を実現したローマ帝国初代皇帝オクタヴィアヌス改めアウグストゥスの治世前期(B.C.29~B.C.19)が描かれます。

ローマ人の物語 (14) パクス・ロマーナ(上) (新潮文庫)

ローマ人の物語 (14) パクス・ロマーナ(上) (新潮文庫)

突如共和政への回帰を宣言

 養父カエサルの暗殺当時、20歳にも満たない無名な青年であったオクタヴィアヌスでしたが、カエサルが遺言で指名した「後継者」の肩書と自らの実力によって、見事に内乱を勝ち抜きました。B.C.29年、ローマに凱旋した彼は、元老院におけるプリンケプス(第一人者)の称号を得ます。

 カエサルは言わば武力によって元老院主導の共和政を打倒し、帝政への布石を打ちましたが、その跡を継いだオクタヴィアヌスは、養父とは全く異なるやり方で、その意思を完遂することとなります。

 内戦終結から間もないB.C.27年、オクタヴィアヌスは突如として自身の特権を全て返上し、共和政へと回帰することを宣言しました。オクタヴィアヌスはあの終身独裁官カエサルの後継者であり、もはや誰もが太刀打ちできない絶対権力者です。元老院の面々は、当然彼が独裁に走ると見ていたところ、この宣言が行われたわけですから、我を忘れて狂喜します。

 さらにオクタヴィアヌスは元老院からの依頼を受け、属州を2種類に分けます。外敵の侵入や治安悪化に悩まされていない平和な属州は元老院選出の総督に任せ、外敵からの防衛が必要な辺境の属州はオクタヴィアヌス自身が責任を持って治めることとしたのです。

 元老院議員の面々としては、自分たちは実り豊かで安全な属州において余生を送ることができ、不安定かつ危険な属州はオクタヴィアヌスが一手に引き受けてくれるのですから、願ったり叶ったりです。そして、国家防衛に必要な権限として、オクタヴィアヌスに軍団の指揮権属州総督としての命令権を与えたのでした。

 こうしてオクタヴィアヌスは、政治上のトップである執政官(コンスル)と、軍事を統括する軍司令官(インペラトル)という大権を改めて得ることとなったのです。前者は共和政ローマで代々引き継がれてきた由緒正しい役職であり、後者も共和政ローマの統治機関である元老院から正式に付与されたものでした。

 彼が得た権限は、これまでの共和政で存在してきたものばかりでしたが、従来はこれを別々の人間が分散して握っており、かつ任期があったため、独裁には繋がりませんでした。しかし、オクタヴィアヌスはこれを一度に併せ持ったことで、言わば合法的に巨大な権力を得たわけです。

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ローマ帝国初代皇帝アウグストゥス

オクタヴィアヌスからアウグストゥスへ

 ただ、こうした政治体制の移行はあまりにも巧妙に行われたため、オクタヴィアヌスの言動が共和政から帝政への布石であることに気付けた元老院議員はおりませんでした。その証拠に、共和政への回帰宣言が行われた3日後には、オクタヴィアヌスに「アウグストゥス(尊厳者)」の称号を贈ることが元老院内で提案され、全会一致で可決されます。

 しかもその際、オクタヴィアヌスは国家の全権を担うように元老院から要請され、何度か辞退した上でこれを受けました。彼は権力を元老院に一度返した上で、「謹んで再び権力の譲渡を受ける」という形を取り、共和政という従来の枠組みを崩すことなく、事実上の皇帝となったのです。

 帝政への移行に際して、オクタヴィアヌスがここまで慎重を期したのには、彼の性格も影響していたことでしょうが、やはり古代ローマの歴史を振り返らないわけにはいきません。

 ローマにはB.C.509年、市民が暴虐な王を追放して王政を打倒し、共和政へと移行した歴史があります。いきおい、1人の人間のみを頂く独裁体制にはアレルギーがあり、共和政下では最高の役職である執政官をはじめ、あらゆる公職には複数人が就くことと決まっていました。

 オクタヴィアヌスはこうした事情を踏まえ、元老院を極力刺激しない形で少しずつ権力を掌握していったのです。彼の心には、あまりに急進的な改革を断行したことから暗殺された養父カエサルの事例もしかと刻まれていたことでしょう。

偽善者を演じ切ったオクタヴィアヌス

「人間ならば誰にでも、現実の全てが見えるわけではない。多くの人は、見たいと欲する現実しか見ていない」と言ったカエサルは、「今まで通りの秩序(=共和政)を守ってこそ国家は安泰である」と思い込んでいる「見たいと欲する現実しか見ていない」人々に対して、「見たくない現実(=元老院による少数指導体制の機能不全)」を突き付けました。

「現実の全てが見えていた」カエサルは、今や地中海世界全体を包括することとなったローマに、権力の一点集中による統治の効率化と強化をもたらすべく、「帝政」という新秩序を真正面から確立しようとしたのです。

 しかし、この直接的なやり方は、従来の反対派からの反発はもちろん、これまで味方であった人々の失望をも買ってしまいます。その結果が最悪の形で現れた事件が、カエサルの暗殺でした。

 これに対してオクタヴィアヌスは、「今まで通りの秩序(=共和政)を守ってこそ国家は安泰である」と考える人々に、「見たいと欲する現実(=共和政)」をあえて見せ続けました。オクタヴィアヌスは事実上の帝政を創始しましたが、「多くの人は自身が見たくないものは見ない」ことを理解する彼は、表面上さえ共和政を取り繕えば、その実質にわざわざ斬り込んでくるような人物などいないことを知っていたのです。

 筋の通らないことに対して「間違っている」と真っ向から勝負せねば気が済まなかったカエサルと異なり、オクタヴィアヌスは自身が偽善者を演じてまで無用な争いを避け、「泰平の世」という「実」を取ったのでした。元老院に対する態度を見れば、カエサルとオクタヴィアヌスの性格の違いは一目瞭然です。

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帝政の事実上の創始者ユリウス・カエサル

ユリウス・カエサルは失敗したのか?

 それでは、最終的に暗殺されたカエサルが失敗で、皇帝となったオクタヴィアヌスが成功であったかと言うと、そう単純でもありません。2人は、それぞれが歴史的に極めて重要な役割を果たしたと言えます。

 グナエウス・ポンペイウス(B.C.106~B.C.48)をはじめ、元老院側に多くの有力な共和政支持者がいたB.C.50年の時点で、この政体を回天させるには、やはり武力による衝突は避けられなかったでしょう。

 そうなると、ガリア戦役(B.C.58~B.C.51)を経て、子飼いの軍事力と民衆からの支持を手に入れたカエサルの軍事的才能は何よりも必要でしたし、この状況下では強行突破とも取れる彼の政治手法こそ唯一の解だったのです。

 そして、カエサルが既に有力な元老院派の武将を根絶やしにしていたため、オクタヴィアヌスが18歳の若さで政界に引っ張り出されながらも、天下を平定することができたのでした。

 そう考えると、やはり帝政ローマの事実上の創始者はカエサルと言って良いでしょう。実際、ローマ皇帝はその後も「カエサル」を名乗り続けます。そしていつしか、「カエサル」は「皇帝」を意味する言葉となっていったのです。

 したがって、イエス・キリスト(B.C.4頃~30頃)の言葉として伝わる「カエサルのものはカエサルに」の「カエサル」とは、ユリウス・カエサルのことではなく、「皇帝」の意になります。「皇帝」の意味としての「カエサル」が「カイザー(ドイツ語で皇帝の意)」「ツァーリ(ロシアにおける最高権力者の称号)」の語源となったのも、決して偶然ではありません。

 ちなみに、英語で皇帝を意味する「エンペラー」は、オクタヴィアヌスが手にすることになった「インペラトル(=軍司令官)」の称号に由来します。「カエサル」は人名ユリウス・カエサルから来ていますが、この「インペラトル」は、元はと言えば歴とした共和政下の一役職名だったわけですね。

 オクタヴィアヌスが事実上の皇帝となった際の正式名称は、インペラトル・カエサル・アウグストゥス。この名前が、ヨーロッパにおける「皇帝」を表す言語の原点となったのです。

織田信長と徳川家康の関係に類似

 時代も国も違いますので、比較対象としては見当違いかもしれませんが、カエサルとオクタヴィアヌスが成した政治的事績とその際の役割は、織田信長(1534~1582)徳川家康(1543~1616)のそれに似ています。

 カエサルと信長は、旧態依然とした秩序の破壊者。新秩序を構築しようとした矢先、50歳前後で殺されてしまいます。カエサルは共和政を武力で打倒し、帝政への移行を試みましたが、55歳で凶刃に斃れます。信長は室町幕府を滅ばした上、天皇すら超越しようとしたようですが、49歳で本能寺の炎に消えました。

 一方、オクタヴィアヌスと家康は、前任者が築こうとした新秩序に具体的な形を与え、長きに渡って続いてきた内乱を収めて、国家の基盤を固める役割を果たしました。オクタヴィアヌスの帝政創始、家康の江戸幕府開府がこれに当たります。その後、約300年に渡って概ね国家の平和が保たれた点も似ていますね。

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オクタヴィアヌスと類似点の多い徳川家康

 余談ながら、オクタヴィアヌスと家康は慎重な性格も一緒で、お互い76歳、73歳と長生きしました。ただし、家康が健康マニアだったのに対し、オクタヴィアヌスはそちらの方面には全く気を遣っていなかったようです。オクタヴィアヌスは元々病弱だったため、自分がこれほど長く生きられるとは思わず、孫世代の血縁者を後継者に指名していったのですが、次々に先立たれるという不幸に見舞われています。

 また、家康が戦上手であったのと裏腹に、オクタヴィアヌスは自分でも認めるほど軍事的才能に乏しく、戦争は全て右腕のマルクス・ウィプサニウス・アグリッパ(B.C.63~B.C.12)に任せていました。B.C.31年にマルクス・アントニウス(B.C.83~B.C.30)とクレオパトラ7世(B.C.69~B.C.30)を破ったアクティウムの海戦でも、実際に指揮を執ったのはアグリッパです。

 それにしても、40歳近い歳の差がある10代時点のオクタヴィアヌスの才能を認め、これを後継者に指名したカエサルは凄まじい慧眼の持ち主ですね。イタリアの高校ではリーダーの条件を「①知性、②説得力、③肉体上の耐久力、④自己制御の能力、⑤持続する意志」と教えるそうですが、その全てを持ち合わせていたカエサルだからこそ、オクタヴィアヌス少年の輝きを見抜けたのかもしれません。

次巻へつづく)