ローマ人の物語(21)/1年半の間に即位しては倒れた3人の皇帝たち

ネロの死がもたらした混沌

 歴史作家、塩野七生による大長編『ローマ人の物語』(新潮文庫)全43巻を紹介していくこのコーナー。前巻では、「暴君」と言われた第5代皇帝ネロ(37~68、在位54~68)の治世を描きました。

 さて、治世前半は「善政を敷いていた」と評価する向きもあるネロでしたが、弟、母、妻、恩師を殺害した他、芸術を愛好するあまり国政を放り出すといった失政も重ねます。これが最終的には各地での反乱を招き、元老院からも「国家の敵」との宣告を受けた彼は、追い詰められた挙句に自裁して果てました。

 これにより、ユリウス・カエサル(B.C.100~B.C.44)やアウグストゥス(B.C.63~14)から続いたユリウス=クラウディウス朝は断絶。ローマ帝国は創始以来初の危機を迎えました。

 今回紹介する『ローマ人の物語(21)危機と克服(上)』(新潮文庫)では、混沌とする時代の中、次々に即位しては倒れていった下記3人の皇帝について取り上げます。

第6代皇帝セルウィウス・スルピキウス・ガルバ(B.C.3~69、在位68~69)
第7代皇帝マルクス・サルウィウス・オトー(32~69、在位69)
第8第皇帝アウルス・ヴィテリウス・ゲルマニクス(15~69、在位69)

 ただし、各皇帝の在位期間は、ガルバ7カ月、オトー3カ月、ヴィテリウス8カ月という具合ですので、治世と呼べるようなものは無いに等しかったのですが…。

ローマ人の物語 (21) 危機と克服(上) (新潮文庫)

ローマ人の物語 (21) 危機と克服(上) (新潮文庫)

  • 作者:塩野 七生
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2005/09/28
  • メディア: 文庫

ヒスパニア属州総督のガルバが新皇帝に

 ネロの治世末期にガリア(現フランス)で反乱が起こった際、ヒスパニア(現スペイン)で属州総督の地位に就いていたのが、当時既に70歳を超えていたガルバです。混沌とした情勢にあって、ヒスパニアの軍団から皇帝に推挙された彼は、これを受けます。

 ガリアの反乱が鎮圧される中、ガルバがローマに進軍してくるとの報に動揺した元老院は、彼の皇帝即位を実質的に認め、「暴君」ネロに対しては国賊の烙印を押します。民衆の支持も失ったネロは自死を遂げ、ガルバは名実ともに唯一の皇帝となりました。

 ガルバには、ヒスパニア属州を統治してきた実績がありました。それも民衆による告発などを受けていないことから、概ね善政であったと考えられています。そんな彼でしたが、皇帝に即位してからは、いくつもの失策を犯すこととなるのです。

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第6代皇帝ガルバ

相次ぐ失策で人心を掌握できず

 第一は、ローマ入りの遅さです。彼が皇帝として認められたのは68年6月でしたが、首都のローマに入ったのは同年10月。いくらヒスパニアから旅をせねばならなかったとはいえ、4カ月はかかり過ぎです。

 本来は可能な限り即座に首都入りして民衆や元老院に姿を見せ、新皇帝としての能力を誇示せねばならない重要な段階であったにも関わらず、むしろ権力の空白期間を作ってしまったのでした。

 第二は、人心掌握の失敗です。ローマでは、皇帝に即位した際、ボーナスのような形で軍団に金貨を配る習わしがありました。言わば人気取り政策ですが、大きな権力基盤である軍隊の忠誠心を保つことは、自らの意に沿った政治を円滑に進めるために必要な現実的措置でした。

 しかしガルバは、「私の兵士は、金に釣られたのではなく、自らの意志で付いて来たのだ」と発言して金貨を一切振る舞わなかったのです。正論ではありますが、期待を裏切られた兵士たちの落胆ぶりは想像に難くありません。

保身第一の人事に失望広がる

 第三は、人事の失策です。ガルバが皇帝に名乗りを挙げた時、すぐにこれを支持したのは、ルジタニア(現ポルトガル)属州総督であったオトー(後の第7代皇帝)でした。彼の善政は遠く離れた首都ローマでも評判になるほどでしたから、オトーを協力者として側に置いておくことは、プラスにこそなれリスクは無かったはずです。

 しかし、ガルバは側近として、これまでの部下である名も無き一軍団長を選びました。自身の軍団の一個大隊を任せるくらいであれば差し支えありませんが、地中海全体を傘下に収める帝国のナンバー2に据えるには甚だ不適切と言わざるを得ません。

 また、ガルバはゲルマニア属州総督の人事でも、優秀で経験豊か、かつ人望の厚かった男を解雇し、別の人物を送り込みます。これには兵士たちも憤慨。一気に反ガルバの機運が高まりました。f:id:eichan99418:20200224043039j:plain

 結局ガルバは、自分の保身ばかり考えていて、大局観など持ってはいませんでした。すなわち、自身の地位を脅かしかねない人物を要職に就けず、言うことを聞きそうな相手ばかり選んで側に置いたわけですね。「凡人は自身より優秀な人物を部下に持てない」と言いますが、そのお手本のような事例です。

 オトーの件を見ても、彼の器の小ささは明白です。確かにオトーは、ガルバにとってライバルとなり得たかもしれません。しかし、オトーは当時まだ36歳と若く、たとえ野心があったにせよ、ガルバを失脚させるためにわざわざ余計な動きをするリスクを背負おうとは考えなかったでしょう。なにせ70代のガルバは、待っていればじきに亡くなりますからね。ガルバにはむしろ、この若者を抱き込んで自らの力に変えるくらいの器量が欲しいところでした。

 ゲルマニア属州の人事においても同様です。同属州はローマ帝国にとって、難敵であるゲルマン民族との戦いの最前線に当たる超重要地域。そこを守る司令官を、自身の利益のためだけに替えてしまうなど、国防軽視も良いところです。

 こうした中、ゲルマニアで反乱が起こります。担ぎ上げられたのは、同地で総督を務めていたヴィテリウス(後の第8代皇帝)。これに対してガルバは、ルキウス・カルプルニウス・ピソ・リキニアヌス(38~69)という人物を養子にして後継者であることを示しますが、もはや誰からの支持も得ることはできませんでした。

 ここでついに、ガルバの後継者の座を狙っていたオトーが動きます。70代のガルバであれば、その死を待てますが、当時54歳のヴィテリウスが帝位を奪えば、自分の芽は無くなる。そう考えた彼は、ヴィテリウスがローマに到達する前に、ガルバとピソの父子を殺害し、第7代皇帝の座に就いたのです。早くからガルバの支持に回ったにも関わらず、冷遇されたことも、心情としては大きかったでしょう。

皇帝オトー、わずか3カ月の天下

 こうして、ヴィテリウスの反乱、ガルバの死、オトーの皇帝即位は、ほぼ同時に起こりました。現代であれば、こうした情報は瞬時に伝わりますが、当時の情報伝達の遅さでは、擦れ違いが生じます。

 この場合、ガルバに対して反乱を起こしたヴィテリウスが、皇帝がガルバからオトーに変わったことを知らないまま、軍団を率いてゲルマニアからローマへと南下しつつありました。

 皇帝の座を狙うヴィテリウスは、ガルバが殺害され、オトーが即位したとの報を受けてもなお、進撃を止めませんでした。両者はイタリア北部のベドリアクムにて激突。血で血を洗う激戦の末にヴィテリウスが勝利し、オトーは36年の若き生涯を終えました。

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第7代皇帝オトー

 余談になりますが、実はオトーは元々、ネロの遊び仲間だったのです。しかし、オトーの妻ポッペア・サビーナ(30~65)を気に入ったネロが、彼女を奪い、オトーをルジタニア属州総督とすることでローマから遠ざけたのでした。

 理不尽に左遷されながらも、オトーは腐らず、むしろルジタニアで善政を敷きます。前述の通り、その呼び声はローマにも届いたほどで、彼の行政能力が高かったのは間違いありません。泰平の世であれば、有能な政治家として幸せに歳を重ねることもできたでしょうに、少々不憫な人物です。

何もしなかった皇帝ヴィテリウス

 さて、オトーを葬り去り、第8代皇帝に就いたヴィテリウスでしたが、オトー側に付いて戦った兵士たちに対する苛酷な処遇が反発を招き、早くも人心を失います。

 言わば、たまたま軍団から支持されて皇帝に即位しただけの彼は、「国家ローマの未来図を描き、政策を推し進める」という皇帝としての仕事を一切行いませんでした。彼が提出した法律は1つも無く、ただ贅沢三昧の生活を送るに終始したのです。

 これでは、民衆も元老院も軍団も、失望するのは当然。そんな中、ヴィテリウスが何もしないでいるうちに、次期皇帝への道を着々と整えつつあった男がいました。ネロの治世から、ユダヤ戦争(66~73)における軍司令官として現地に赴任し、東方で戦いを続けていたティトゥス・フラウィウス・ウェスパシアヌス(9~79)です。

 ヴェスパシアヌスは最終的に、内乱状態に陥ったローマの混乱を収拾し、フラヴィウス朝を創始して五賢帝時代(96~180)への橋を架けることになります。次回は、そんな彼が皇帝へと至った道のりから紹介していくこととしましょう。

次巻へつづく)