ローマ人の物語(24)/帝国最大版図を実現!五賢帝トラヤヌス(下)

 歴史作家、塩野七生による大長編『ローマ人の物語』(新潮文庫)全43巻を紹介していくこのコーナー。前回は、トラヤヌス(53~117、在位98~117)が皇帝に就いた経緯と、彼の治世における最も華々しい“成果”であるダキア戦役について語りました。 今回は一転してローマ帝国の内側に目を向け、トラヤヌスの行った内政を中心に紹介していきます。

イタリア本国の産業空洞化を抑制

 トラヤヌスは五賢帝に数えられるだけあり、内政にも相当な力を注いでいました。例えば、属州が拡大したことによるイタリア本国の産業空洞化への対策として、「元老院議員は資産の最低3分の1を国内に投資せねばならない」との法を定めます。

 また、空洞化の根本的な要因を若年人口の減少に見て取ったトラヤヌスは、少子化対策として奨学金制度も設けました。ちなみに、少子化は初代皇帝アウグストゥス(B.C.63~14、在位B.C.27~14)も気にかけていた問題で、彼の作った「子どもを持つ元老院議員は、持たない議員と比べて優遇を受ける」とする法は2世紀当時も健在でした。

アッピア街道を複線化

 そのほか、トラヤヌスはイタリア本国か属州かに関わらず公共工事を推進し、帝国に住む市民の生活向上に努めます。

 例えば、商店街、学校、市民集会所、裁判所などを兼ね、人々の集う場所となった「トラヤヌスのフォールム」の建築はその一環です。また、大型船でも安心して入れるよう、ローマの外港であったオスティア港を拡大・整備し、美しい正六角形の巨大な「トラヤヌス港」を作りました。

 ローマ人が「街道の女王」と呼び、B.C.312年にアッピウス・クラウディウス・カエクス(B.C.340~B.C.273)によって敷かれたアッピア街道の複線化も、トラヤヌスの事業です。

 元のアッピア街道が山間を行くのに対し、新しく敷設されたアッピア・トライアーナ街道は早々に平野へと抜け、アドリア海に出ます。この時代になると、人や物の移動は共和政時代よりも格段に増えていたでしょうから、現代でいうところの「高速道路」に当たるローマ街道の新設には意義があったものと考えられます。

白線が旧アッピア街道

 多くの公共工事が、残っている記録の少ないトラヤヌス帝の治世下で行われたと分かるのは、建造物に使われたレンガに製造年と業者の商標が刻印されているためです。ローマ人は工事が早く、「在庫」という概念もなかったので、レンガが作られた時期と使われた時期はほぼ同じと考えて良いのだといいます。

史的価値の高い小プリニウスとの書簡集

 本書では、トラヤヌス(53~117)の生涯に迫るため、同時代を生きた著名人として、コルネリウス・タキトゥス(55~120)ガイウス・プリニウス・カエキリウス・セクンドゥス(61~113頃、小プリニウス)が挙げられています。いずれも元老院議員ですので、当時のエリート階級と考えて間違いありません。

 タキトゥスは古代ローマの誇る歴史家であり、1世紀当時のゲルマン民族に関する情報を盛り込んだ民俗誌『ゲルマーニア』を著したことで有名です。ただ、政界での出世コースは歩まず、執筆活動に明け暮れました。

 一方、小プリニウスは弁護士として、不正を犯した属州総督を追及する裁判などで活躍。その能力と人柄をトラヤヌスに買われ、ビテュニア(現在のトルコ北部)の属州総督になっています。

 小プリニウスは赴任先から、施政に関する様々な相談をトラヤヌスに書き送っており、それに対してトラヤヌスも親身に答えています。その書簡のやり取りは日本語に訳され、講談社学術文庫に収録されていますので、関心があれば読んでみてください。

 余談ながら、前々回の「ローマ人の物語(23)/五賢帝時代への架け橋となった皇帝兄弟」でも触れた通り、百科全書『博物誌』を著し、ヴェスヴィオ火山が噴火した際に現場まで駆けつけて亡くなったガイウス・プリニウス・セクンドゥス(23~79、大プリニウス)は、小プリニウスの叔父に当たります。

普及前のキリスト教観が垣間見える

 トラヤヌスと小プリニウスの往復書簡の中でも興味深いのは、当時ローマ帝国の東部で信者を増やしつつあったキリスト教に関するやり取りの部分です。

 キリスト教が普及する以前、ローマ帝国は多神教の社会でした。一方、キリスト教は一神教ですから、信者たちがローマの神々への供え物を拒否するといった事案が発生しており、キリスト教徒は「社会秩序を乱す存在」として煙たがられていました。

 そもそも、古代ではほぼ100%の人間が多神教信者であり、明確に一神教の教義を掲げていたのはユダヤ教のみでした。「唯一神」という概念自体、世間的には異端以外の何物でもなかったのです。 皇帝崇拝が強制されるのは帝政ローマ後期のことですので、その点の軋轢はなかったとはいえ、当時の人々にとって、キリスト教が得体の知れない新興宗教であることに変わりはありませんでした。属州総督であった小プリニウスのもとにも、様々な告発が舞い込みます。

 小プリニウスは、当時の社会通念から判断して、「告発された者がキリスト教徒であると認めた場合には有罪とせざるを得ない」「秘密結社に通じかねない会合は禁じてある」としつつも、「キリスト教徒は『盗みをしない』『約束を守る』といった誓いを立てているだけで、それは罪や過失と呼ぶには値しないのではないか」という趣旨の書簡をしたためています。

 また、キリスト教徒が年齢、性別、社会的地位、地域に関わらず増加の傾向にあることも報告しており、その対応に苦慮する様子が見て取れます。ローマ帝国中にキリスト教が広まる前の、この宗教に対する見方が分かる貴重な史料と言えるでしょう。

パルティアに遠征するも志半ばで病没

 トラヤヌスによる治世の最後を飾ったのは、ユーフラテス川でローマ帝国と国境を接していたパルティア王国(B.C.247~224)との戦いです。彼の国は当時、現在のイラク、イラン、アフガニスタン、パキスタンにまでまたがる大国でした。

 争いの発端は、両国の間に挟まれたアルメニア王国での内紛でした。トラヤヌスはパルティア王国に攻め込み、首都クテシフォンまで陥落させますが、彼が冬を越すために一時撤退したのを見計らったかのように、パルティア国内では諸侯が蜂起。ゲリラ戦法でローマ軍を苦しめ始めました。

 皇帝の不在を衝く形でユダヤ人による反乱も起こり、心労が重なったせいか、トラヤヌスは病に倒れます。そして、二度とローマの地を踏むことなく、移動の最中に帰らぬ人となったのです。

 トラヤヌスはパルティア王国への遠征中、クテシフォンに程近い“いにしえの都”バビロンに立ち寄り、「私が若ければ、インドまで軍を進めていたであろうに」と呟いたそうです。彼は自身を、約450年前にギリシアからインドまで遠征した古代マケドニア王アレクサンドロス3世(B.C.356~B.C.323)に重ね合わせていたのでしょう。

 そうしたロマンチシズムとは別に、パルティア王国を倒すことには当然ながら実利もありました。同国は東洋と西洋の結節点にあり、東西貿易の主導権を握っていたのです。もしローマ帝国がパルティア王国を下し、少なくとも勢力を衰えさせることに成功すれば、そうした貿易の利権を全て手中に収めることができます。

 したがってトラヤヌスは、ローマ帝国の東の国境を「黒海からユーフラテス川上流を経て紅海へと抜ける線」から「カスピ海とペルシャ湾を繋ぐ線」へと押し出したかったのかもしれません。

 ただ、その夢は露と消えました。トラヤヌスは亡くなり、皇帝の座は3人目の「五賢帝」ハドリアヌス(76~138、在位117~138)へと受け継がれることになります。

次巻へつづく)