南米周遊記 第1章・南米到達編(4)/モスクワ、そしてマドリードへ

ロシア最大を誇るシェレメチェボ国際空港

 2012年2月7日~3月12日にかけての南米旅行を描く本コーナー。前回は、日本からの出国当日の様子を描きました。今回は、南米への経由地であるロシアのモスクワ、そしてスペインのマドリードへと降り立ちます。

 日本時間2012年2月7日13:05、僕たちは、成田空港から西へと飛び立ちました。2月はオフシーズンのため乗客が少なく、並びの4席には伊東と僕しかいませんでしたので、機内では気兼ねなく話すことができました。

 約11時間の飛行の末、ロシアの首都モスクワのシェレメチェボ国際空港に到着。現地時刻は2月7日18:15でした。

 この空港には、次の飛行機へ乗り継ぐためだけに降り立ったのですが、セキュリティ検査は厳しく、靴まで脱がされました。ここまでされたのは、アメリカを訪れたとき以来です。

 シェレメチェボ国際空港は、2007~2012年にかけて4つものターミナルを新設し、2020年現在も乗客数および取り扱い貨物量でロシア最大を誇っています。僕たちが入ったのも、当時完成したばかりのターミナルで、隅々まで清掃が行き届いており、清潔感のある印象を受けました。

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 小ぎれいに整った販売店も多く見かけました。ロシアの代表的な民芸品である「マトリョーシカ人形」はあまりにも大量に並んでいたので、思わず笑ってしまったほどです。同国の国民的キャラクター「チェブラーシカ」のぬいぐるみも、至るところに置いてありました。

約10年でGDPが6倍に伸長したロシア

 ロシアと言うと、社会主義国家であったソビエト連邦時代の歴史が思い起こされます。国民が“平等に”貧しくなり、深刻なモノ不足にあえぎ、古い集合住宅でその日暮らしをしている様子は、当時を扱った学術書や小説で読んだことがありました。

 そのため、公共の建造物も老朽化した状態で使われ続けているようなイメージを抱いていたので、正直なところ、空港の近代的な様相には驚かされました。

 ただ、僕らがモスクワを訪れた2012年時点で、ソビエト連邦が崩壊してから20年以上が経っていたわけですから、状況が変わっていて当然です。思い返せば高校時代、2000年代に入ってから飛躍的な経済成長を遂げた国々が、各国の頭文字を取って「BRICs(ブラジル、ロシア、インド、中国)」と呼ばれていることも習いました。僕はそれを、肌で実感することになったのです。

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 実際の数値を見ても、2000年には約30兆円だったロシアのGDPは、2012年時点で約180兆円へと急成長を遂げていました。2000年は、ウラジーミル・プーチン(1952~)がロシアの大統領に就任した年です。彼の強権的な手法には批判も多くありますが、自国を豊かにした手腕は認めなければならないでしょう。

早くもインターネットから遮断される

 空港の構内を搭乗口付近へと向かう道すがら、多くの人々が退屈そうに床に寝そべっているのに出くわしました。「なぜ、わざわざ座席もない場所に人が集まっているのだろう」と伊東が言うので、よく観察すると、皆は一様に何らかの電子端末をいじっています。

「あの場所は、Wi-Fiスポットみたいだね」

 この推察は間違っていませんでしたが、なぜか僕たちの端末では電波を拾うことができませんでした。接続方法に問題があったのかもしれませんが、海外の空港において、この手の事象はよく発生します。

 多額の料金が発生してしまうため、僕らは海外事業者の4G回線を使わない設定にしていました。こうして、早くもインターネットから遮断された状態に陥った結果、僕たちは自身の安否を母国に知らせることができないまま、定刻通り、現地時刻2月7日20:30にはモスクワを去ることとなったのです。

マドリード・バラハス国際空港に到着

 モスクワからさらに西へ、東欧諸国、ドイツ、フランスの領空を抜け、飛び続けること4時間。現地時刻2月7日22:45、僕たちは、スペイン・マドリードのバラハス国際空港に降り立ちました。

 最初の飛行機では元気に喋っていた僕たちですが、2度目のフライトでは、泥のように眠りました。無理もありません。モスクワを発った時点で、日本時間では既に深夜2:30を回っていた上、成田~モスクワ間における11時間の飛行で、疲れも溜まっていました。

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 僕がヨーロッパの国を訪れるのは、2010年の夏にオーストリアを旅して以来でした。心地よい緊張感を抱きながら荷物を受け取り、税関を抜けると、ようやく海外に来たという実感が湧いてきました。

 南米には、2月8日夕刻の飛行機で発つため、2月7日の夜はマドリードにて1泊する予定となっています。宿泊先については一切を伊東に任せており、僕は何も関知していませんでした。

 思えば僕はこのとき、まだ本当の“旅”を知らなかったのです。それまでも1人で海外を旅行した経験はありましたが、現地における宿泊先も交通手段も国内で予約してから向かう“安全な旅”でした。

 僕はこの南米周遊を通じて、それまでとは比較できない“異次元の旅”を体験することとなりますが、その前哨戦は既に始まっていたのです。

旅行初日の宿はまさかの……

 空港内をどんどん歩いていく伊東。僕がその後を付いていくと、彼はおもむろに荷物を置き、平然と言い放ちました。

「ちょっとここで荷物を見ててくれない?眠れそうな場所を探してくるから」

 僕は事も無げに「ああ、待ってる」と答え、近くの階段を駆け上がっていく伊東の姿を見送りましたが、内心では唖然としていました。彼がホテルの予約などしていないことは想定できたものの、まさか初日から空港泊が“予定”されているとは思わなかったのです。

 僕も旅は好きですが、公共空間で一夜を明かした経験はありませんでした。しかも、今回眠る場所は海外の空港です。一気に気が張り詰めました。

 ただ、伊東の発想は、散財を防ぐ上では非常に合理的でした。「ヨーロッパは物価が高い。宿を取ると、宿泊代ばかりか、ホテルまでの交通費もかかってしまう。寝るだけのために、あまりコストをかけたくない」というわけです。

 確かに、空港内であれば命の危険はありませんし、翌日の便でマドリードの地を離れるのですから、1泊くらいは辛抱できます。僕は、早くもこの旅に面白みを感じ始めていました。

タダより怖いものは無い

 しばらくすると、伊東が戻ってきました。

「よし、良い場所を見つけた。そこへ行こう」

 上階へと向かい、少し歩くと、ひらけた空間に出ました。伊東が見つけてきたのは、航空券の発券カウンターの前です。もちろん業務時間外ですので、人の邪魔にはなりません。

 僕たちは、大きな柱の1つを宿泊地と決め、荷物を置くと、その場に横たわりました。普段は重くてかさばるバックパックも、いざ硬い床で寝るとなると、ちょうど良い枕となります。

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 ただ、20~30m向こうにある出入口の自動ドアが時折開閉し、そこから冷たい風が容赦なく吹き込んでくるのには辟易しました。何しろ、外気の温度は氷点下です。いくら着込んでいても、寒さで凍えそうでした。

「タダより怖いものは無い」とは、よく言ったものです。僕は「これは、難儀な旅になりそうだな」と苦笑するしかありませんでした。

(次回へつづく)

※「南米周遊記」は、2012年2月7日~3月12日にかけての南米旅行を題材とした記事です。